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今回の審査で、自分なりに到達した最終的なクライテリアは次の3点である。 1.チャレンジ:建築とは、われわれの生という不定形なナカミに、ひとつの形を与えるウツワである。そして、ナカミが不定形である以上、それへの形の与え方は無限にありえる。しかしながら、人間は慣習を身体化する生き物であるから、いま流通している有限数の形の与え方の外にはなかなか出られない。他にも可能性はあるのに。よって、審査員である自分がそれまで思いつかなったことを構想でき、実現できたものであるかどうか? 2.クオリティ:そうして実現できた建築の「出来」が良いかどうか? 3.エビデンス:そうして構想、実現できたものが、われわれの生において、またその集合体であるわれわれの社会において、実際に成立しうるものになりえているのか? さらに、クライテリアというわけではないが、今回、議論を尽くしても、3人の審査員全員がそろって、その人をJIA新人賞としてふさわしいと、胸を張って公言できる理由をどうしても持てない場合は、たとえ2対1の賛成多数でも、受賞としない、とした(ぼくは、賞を多数決や採点集計で決める、ということに反対である)。そのため、今回は、最終選考に残った5作品がどれをとっても非常に高レベルであったにもかかわらず、受賞者が普段は2人のところ1人と大変厳しい選考結果となってしまった。 新しさは必ずしも派手な形で到来するわけではない。むしろ現在においての決定的な新しさは、誰も気づかないうちにわれわれの内部に忍び込み、あるとき一気にわれわれをひっくりかえしてしまう類のものであるかもしれない。そう思えば、こちらの読み取り能力が足りていないかもしれない。その懸念が残って、いつまでも心は疼く。 以下、現地審査まで進んだ5作品の講評を記す。審査委員長であるぼくは、なぜ4組の建築家が選を逃したのかについても触れねばならないだろう。 中山英之さんの「孤と弦」での「住むこと」は、収納というカテゴリーに属する場を集めたテラス、水回りを集めたテラスという具合に、機能ではなく、住むことに伴う物的特性の分類で分割されたテラス間を訪ね歩くという、近代的な住宅が無意識に前提としてきた、住まい方から逆算された生の形とは大きく違う生の形を、もうひとつのオルタナティブとして、説得力をもって提示することに成功していた。このことは、人間の不定形なままの生が現実にはそうそうなく、あるとすれば震災で焼け出されたすぐの時などばかりで、しかしそれもあっという間にある形をまとってしまい、そして一度まとってしまえば、生はその形に縛られることを考え合わせれば、ぼくたちに、形はいつでも自分の意思で変えられる、ということを思い出させてくれる、稀有な建築的達成であると言える。建築についての従来型の価値観を前提とするのではなく、新たな価値観を築くというチャレンジを行ない、建築物として高いクオリティを築き、その試みが実装されうるエビデンスを示しえた点で、審査員全員が躊躇なく、氏に新人賞に推した。 高橋一平さんの「アパートメントハウス」は、1軒の「ハウス」を建てることさえ厳しい60.56㎡という狭隘な土地に、なんと8世帯からなる「アパートメント」をつくる、という驚くべきプロジェクトである。普通の家であるなら、風呂、台所、個室、と機能が振り分けられた部屋8室それぞれを1世帯のアパートメントとして再定義する、という解法で、クライテリア①からすれば、今回の応募のなかで、目に見える形でもっとも過激であり、その可能性を妄想させるに十分であった。②についても、プログラムの特殊性を巧みに建築に着地させていた。問題は、クライテリアの③で、住まい方を見せてもらった3軒とちょうど空いていた3軒から判断するに、氏が想定された生活様式の成立には疑問も残らなくはなかった。議論はそれでもつれたし、ぼくも最後までは胸を張っては推しきれなかった。 木村吉成さんと松本尚子さんの「houseA / shopB」は、架構(彼らは「構え」と呼んでいる)の設定が内包し、またそこから直接的に導き出せるものだけで、ひとつの建築をつくろうとしたものである。にもかかわらず、それが排他的な還元主義に陥らず、かえって全てのモノを物質として等価に扱うことに成功した建築であり、クライテリア②、またおそらくは③において、目を見張るべきレベルに達していた。ただし主題の前段、つまり「架構だけでつくること」は、そのままでは従前の建築にあってもその中核に位置する姿勢であり、そこにチャレンジがあるとは言い切れない。むしろ、後段の、にもかかわらずの開放性に、建築のあり方の新しい地平が切り開かれるきっかけがあるはずで、だからわれわれは、それらのあわいに位置する論理が何であるのかを議論した。新しさはそこはかとなく感じられる。しかしわれわれはついに残念ながら、明確にはその像を描き出すことができなかった。 古澤大輔さんの「古澤邸」は、強い幾何学的形式性を持たせながら、そのままでは還元・収束に向かいかねないところ、逆に開放性と多様性をもたらすことに成功した稀有な建築である。隅々まで行き渡る物質的思考の密度も精度も高かった。また、周辺住民とのコミュニティを築こうという姿勢やその実践も評価された。とはいえ、前段のモノとしての論理のなかに、後段のコトとしての論理が組み込まれ再統合され、そうでなければ生まれえない建築になっていたかというと、むしろ両者の論理がスパッと切断され、建築がモノとしての閉域論理に回収されているように感じられ、であるとしたら、その構図は従来的な建築のあり方から出ているとは言えないのではないか、という厳しい意見も出た。われわれは、その問いをついに乗り越えられなかった。 井坂幸恵さんと田邉雄之さんの「コロナ電気 新社屋工場 1+2期」は、多品種少量生産の工場の計画である。こうしたタイプの工場だからこそふさわしいアットホームな雰囲気を、真摯かつ丁寧に、中央ホール+周辺附属屋という構成によって達成した建築であり、操業を続けながら建て替えるという困難をクリアしつつ、建築の質としても大変に優れていた。すばらしい取り組みであり、すばらしい建築であった。しかし徐々にクライテリア①と③のウェイトが増していく議論のなかで、われわれはこの作品にそれに関わる強い論点をなかなか見出せなかった。 こうして今回の審査を振り返ると、ここまで挑戦的な射程距離の大きさを求め、かつそれがたしかに着弾したかのエビデンスをここまで望むべきなのかどうか、という感もしないわけではない。素直に「いい建築」で、「良質な建築」で、なぜ悪いのか? と。 しかし、このまったりとして、正論ばかりが、欠点のなさばかりが要求される、疲弊し窒息しそうな社会にあっては、そういう状況を果敢に転倒させてしまう建築的冒険を行なっている、それゆえにヴァルネラブルな「新人」を顕彰し応援することではないかと、ぼくは考えるのである。
どれも非常にレベルの高い作品群であった。思考の射程距離や着地した空間のクオリティはもちろんのこと、いずれもディテールに至るまで良く考え抜かれており、現地審査をしながら心から楽しむことができたというのが、正直な感想である。それだけに、それらに甲乙を付けなければならないことは大変難しい仕事であった。 中山英之さんの「孤と弦」は、展覧会などを通して素晴らしい建築であろうとは期待していた。ただ平面図を見る限り、少しの疑問があった。「孤と弦」といいながらピーナツツ型に歪んだ内壁(うちかべ)の存在がそのコンセプトを弱めないかという心配である。しかし実際には内壁は、外壁(そとかべ)との隙間を深さに応じて収納や水回りに利用することにより、内壁内部の人の居場所をむしろ純粋な「孤と弦」とすることに寄与していた。通風窓も普段は内壁によって隠されている。これらを可能にする巻戸と呼ぶ可動間仕切りも、アイデアだけではなくて緻密にディテールが詰められていて、十分に実用に耐える。一見ランダムな高さに置かれた10層の床が、実は洪水時の想定浸水高を起点として、そこにスライド書架やキッチンカウンターの高さを物理的なモデュールとして積み上げることで決定したという断面計画も興味深い。 矩形の敷地から楕円を切り取った残余の土地を中山さんは「敷地境界線の二重否定」と表現した。丸と四角は相性が悪い。普通にはネガティブなはずのヘタ地が、同じくネガティブな隣地の残余空間とコラボして、豊かな屋外空間をつくることを知った。 すでに実績のある建築家ではあるが、このプロジェクトの実現に苦節8年を要したという。プロジェクトスタート時の心意気は新人の名に恥じない。掲げたハードルの高さと、それを身を捩りながらクリアし切ったことは新人賞に相応しい。 木村吉成さん・松本尚子さん の「houseA / shopB」は、お二人が「トの字型」と呼ぶ目鼻立ちのくっきりした木造の骨格を内包する店舗併用住宅である。対照的に外皮は、ガル板小波、FRP折板といった軽い材料で「葺かれ」ており、カーテンウォール的な扱いである。加えて独特な手付きのディテールにはあちこちでニヤリとさせられる。近くディテール集も出版の運びと聞く。 それにしてもこの建築に漂う不思議な感じはどこから来るのだろうか。空間に慣れてきたころ、少し俯瞰的に設計の手順を振り返ってみた。すると、中抜きとでもいうか、通常の設計において当たり前のプランニングに相当する部分がほぼないのではないか、と思い至った。例えば住宅部分の壁1に対して窓2の規則正しい開口の配列。つまり住宅としては随分と壁が少ない。だが、どうもそういうことには興味がなさそうなのだ。ひょっとして骨格とディテールだけで成り立った建築? つまり骨と皮か! 面白いじゃないか。ただ、それが建築にとって本当に良いことなのか悪いことなのか、まだ上手く言葉にすることができなかった。それゆえ、最終2選に選んだものの、それ以上に強く推すことは思い止まった。すでに大きな建築も手掛け始めているようで、これからを見守りたい。 高橋一平さんの「アパートメントハウス」は、平面の極限的な窮屈さを、什器や設備の「選択と集中」そしてシェアに加えて、十分な天井高さを活用して立体的にも解決した、2階建鉄骨賃貸アパートである。意外にも豊かな生活の場がつくられていることに驚いた。住戸の真ん中に落ちるボックス柱も図面で見るほど邪魔ではない。クルドサック状の街区に立地していることが、街路に対して開放的なプランを可能にしている。荒川旧河道の川べりという敷地の来歴を正しく読み込んだ大変サイトスペシフィックな建築といえる。 ただ、偶然だとは思うが、現地審査で入居中の状態を見学できたのは道路とは反対側(裏側)の3戸のみで、街路や町並みとの新しい関係が期待できる南側4戸の内3戸は空室、残る1戸は固くカーテンが閉じられて見学はかなわなかった。高橋さんの説明で1階の道端にお年寄りが住んでいたことは確かだが、設計事務所勤務の入居者が多いことも含めて、一体これは本当に「アパートメント」なのだろうか、という疑問が払拭し切れなかったことは残念であった。 井坂幸恵さん・田邊雄之さんの「コロナ電気新社屋工場 1+2期」は、工場を中心とした施設ではあるが、一品ないしは少ロットで精密機器を生産するため、いわゆるラインを持たない。平土間の生産フロアとそれをサポートする管理・設計・休憩など設計者がUSBと呼ぶエリアの間に設けた1mの段差が特徴である。管理が生産に優越する訳でないが、段差が生む空間のヒエラルキーが両者に心地よい分節と緊張感を与えている。リフト付きトラックの普及で今や必須ではないが、元々は搬出入用のプラットホームの高さがレファレンスであろうか。もちろんそれで機能的な支障はないし、太鼓橋の立体交差もカワイイ。だが、もしこの1mの段差がなかったらどうだったろうかと考えてしまう。途端に、浮いたヴォリュームの連続がつくるファサードの軽快なリズムも損なわれるだろうし、極端にいうとデザインの拠り所が次々と崩壊してしまいそうな怖さを感じた。樹状に枝分かれする独立柱もしかり。確かに機能上不都合はない、でも、柱をなくすという選択肢もあり得たはずだ。 それら手法上の危うさを割り引いても、震災直後からの2期8年に及ぶ真摯な取り組みに好感を持った。新人賞の趣旨に照らして相応しいと僕は思ったが、共感を得るまでには至らなかった。デザインの根拠を建築自身に求める自律的な設計手法と非住宅はそもそも馴染みが悪いと、もし僕自身が無意識に感じていたのだとしたら不公平ではないかと自問してみたが、それ以上には強く推す言葉を持たなかった。 古澤大輔さんの「古澤邸」は、古澤さんにじっくり話を伺うのは初めてだった。こんなにずっと真剣に論理的思考を巡らしながら設計する人が世の中には居るのだということにまず驚いた。自分の怠惰さも思い知らされた。『メディアとしてのコンクリート』という書物があるが、この人はまさにコンクリートに対する新しい感受性を持っているのかも知れないと思った。古澤邸のコンクリートは、少なくとも僕が知っている強さや逆に柔らかさを併せ持つコンクリートとは違う種類の材料、つまり別のメディアとして何かを我々に訴えかけてくる。大黒柱的な架構は素直には大樹のメタファと解される。樹上に人々が実るさまには、ルキノ・ヴィスコンティの映画『ルードヴィヒ/神々の黄昏』の一場面を思い出した。美しい青年たちを枝々に休ませて見て愛でるシーンだ。 古澤さんは形式性を慎重に退けたといわれたが、ビルディングタイプよらずしばしば部屋の中央に居座る柱に、僕はどうしても何かもっと古澤さん自身が持つ原型のようなものを見てしまうし、そこにより内省的な思考を働かせてみることは何よりも古澤さんにとって重要なことではないかと思った。 今回奇しくも、5組の建築家がいずれも構造体という邪魔なものをあえて部屋の真ん中に据えた上で、改めてそれらの再定義を試みたようにも見える。2人が鉄骨を、1人はRCを、もう1組は木を、いずれも柱である。そして中山さんだけが、柱ではなく梁として、H鋼を上手に飼い慣らしていたように思う。
建築賞の審査の方法には大きく分けて2つある。ひとつは、書類審査、すなわち図面や写真といった2次元の情報のみで評価するもの。もうひとつは、建築の空間を実際に体験し、その建築を実際に利用している人からのヒアリングなどを経る現地審査によって評価するものがある。勿論、このJIA新人賞は後者であり、建築における実空間の質を丁寧に審査することを大事にしている。しかしながら、この賞が作品に対してというより、それを設計した建築家としての新人性を評価するものであることも特筆すべき点である。現地審査を行った5作品はいずれも完成度が非常に高く、だからこそ何をもって新人賞とするのか、議論は白熱した。中でも最後まで議論に残った(正確に言えば、議論に多くの時間を割いた)作品は、中山英之の「孤と弦」と高橋一平の「アパートメントハウス」と木村吉成と松本尚子の「houseA / shopB」であった。 中山英之による「孤と弦」は、設計者が描きだす恣意的な弧(曲線の壁)と弦(スラブのエッジ)との重なりの狭間で、一見するとクライアントの生活が押し込められているかのようにもみえる。しかし、弧は巻き取り式の浴槽の蓋を立てかけたようにめくれ、外壁との隙間に階段や給排水と換気のダクト、収納や機械室など生活を下支えする機能がプランニングと呼応し、最小限の奥行き寸法のダブルスキンになっている。弦の高さは、過去最大の浸水レベルから導き出された半地下の基礎天端を基準として、梁のレベル、梁成とスラブの位置関係、排煙と採光のために段差のついたバルコニーと室外機や物干し金物を通行人から目隠しするべく立ち上がった腰壁、移動式書庫やキッチンカウンター、テーブルやベッドの足の高さといった様々な水準で生じる段差寸法で決定されている。この複雑な連立方程式の解のような機能と断面の抜き差しならない関係を中山は敢えて説明しようとしない。複雑なジグソーパズルがたまたまうまく嵌ったかのような偶然を装う。一方で床と床を繋ぐ階段は、オーダーメイドの木製ステップではなく、既製品の素っ気ないアルミ梯子なのである。我々に単純な理解を許さないのだ。外に目をやると、どこまでいっても視線の止まりのない建物の緩いカーブの外観が、建物と隣地境界線との距離感を曖昧にし、窓の少ない外壁によって隣人の視線を気にすることなく互いの庭を共有できそう(例え気持ちだけだとしても)である。このような建築内部の身体的寸法と敷地のコンテクストと建物配置の関係を同一レベルで思考する姿勢は、中山特有の建築の他律性と自律性の均衡であり、新しい機能主義と呼べないだろうか。この「他者が建築から何かを発見する歓び」をさり気なく建築に潜ませる建築体験者への気配りが、彼の独創的な設計手法であるとすると、対象が不特定多数の人々が利用する大規模な公共建築であったとしたら、理屈抜きで楽しい体験が誘発される場になるのではないだろうか、と期待が膨らむ。今後の活動に期待を込めて満場一致での新人賞受賞となった。 高橋一平による「アパートメントハウス」は、賃貸アパートであるにも関わらず、現地審査で多くの室内を拝見することができたのは幸運だった。誤解を恐れずに言えば、一般的な賃貸住宅でインストールされるべき機能の一部が『欠けた』空間に放り込まれ、もはや何処に家具を置いたら良いのかも分からなくなってしまう、今までにない感覚に陥った。向かい合う部屋の扉も同時に開いたらぶつかってしまう程の狭い廊下を行き来しているうちに、身体が通常とは異なる動きをしていることに気づき、生活空間がモノではなく行為によってつくられるとする高橋の説明を思い出した。かつて機能から効率的な空間形態が導き出されてきたが、人間本位のプリミティブな『振る舞い』から設計を始めることで、集まって住む新しいカタチが発見される(つくられる)べきではないかという仮説である。今までの集合住宅においての慣習的な機能的な設えが、突如失われた瞬間、戸堺や敷地境界、街区を超えて、都市に広がり始めるのではないかということだ。新しい集合住宅の在り方として大いに可能性を示唆している。 木村吉成と松本尚子による「houseA / shopB」は、敷地の奥行き方向へ連続するトの字門型フレームのピッチの間に挟まれる設えが、1階の店舗と2階の住戸で異なることによって、単純な架構でありながら多様な居場所を作り出している。隣地の敷地を購入する予定があることから、その面の設えは鉛直荷重だけを受けるポスト柱と簡易に取り外せるFRPの波板のみとし、隣地へ接続可能な構造としている。このように評すると、木村松本は構造表現主義のようにみえるが彼らはそれを最も嫌う。設計段階で建築家が全てを決めきることは建築に本来備わっているべき、持続性を失うものであるとし、構造を構造として扱わずインテリアとしての『モノ』のように振る舞わせることで、スケルトン・インフィルでも、メタボリズムでもない、建築の冗長性に富んだ新しい骨格を提示しようとしている。 ここで最後まで評価が分かれた高橋の「アパートメントハウス」と木村松本の「houseA / shopB」について述べなければならないだろう。「アパートメントハウス」はその極小空間故に、設計理論の新しさが実社会の賃貸流通システムの中で本当に成立するのか? 個人的には、ほぼ建築形式としては固定されつつある集合住宅というビルディングタイプに一石を投じたという点において、建築の新しさと同時に、その窮屈でたまらない身体に訴えかける空間こそが、建築でしか成し得ない創造行為そのものであり、それを実行する高橋の能力は新人賞に相応しいと思ったのだが、実際現地を訪れてみると、人々のリアルな暮らしを想像することができないという厳しい意見が出た。「houseA / shopB」は、建築の全体から部分に至るまで解像度の高いディテールで構築されており、職人がつくったかのようなモノの強度を持ち合わせていた。それがある種、建築の社会に対する新しい開き方とも捉えられる一方で、木村松本の設計思想が「構え」といういさささかふんわりとしたものであることに象徴されるように、作品を通して彼らの建築の新規性を言語化できなかった審査委員の歯がゆさが、残ってしまった。 思い返せば、私が11年前の30代半ばにしてこの賞を頂いたときは、建築家として評価されるような経験も無かったし、設計思想も確立されていなかったように思う。荒削りながらも「建築」そのもの、あるいはこれからの活動に対する期待値を込めて評価して頂いたのではないかと記憶している。やはり、新人賞は「建築」にしかできないことに対して、果敢に挑戦する姿勢を保ちつづけながら、新しいビルディングタイプや建築形式、構法やディテールを駆使して、たとえエビデンスがなかったとしても実空間の体験を通して、如何に社会に接続できるか、その努力を惜しまない建築家に贈られるべきだと、改めて認識した。
第31回 2019年度 JIA 新人賞
青木 淳
今回の審査で、自分なりに到達した最終的なクライテリアは次の3点である。
1.チャレンジ:建築とは、われわれの生という不定形なナカミに、ひとつの形を与えるウツワである。そして、ナカミが不定形である以上、それへの形の与え方は無限にありえる。しかしながら、人間は慣習を身体化する生き物であるから、いま流通している有限数の形の与え方の外にはなかなか出られない。他にも可能性はあるのに。よって、審査員である自分がそれまで思いつかなったことを構想でき、実現できたものであるかどうか?
2.クオリティ:そうして実現できた建築の「出来」が良いかどうか?
3.エビデンス:そうして構想、実現できたものが、われわれの生において、またその集合体であるわれわれの社会において、実際に成立しうるものになりえているのか?
さらに、クライテリアというわけではないが、今回、議論を尽くしても、3人の審査員全員がそろって、その人をJIA新人賞としてふさわしいと、胸を張って公言できる理由をどうしても持てない場合は、たとえ2対1の賛成多数でも、受賞としない、とした(ぼくは、賞を多数決や採点集計で決める、ということに反対である)。そのため、今回は、最終選考に残った5作品がどれをとっても非常に高レベルであったにもかかわらず、受賞者が普段は2人のところ1人と大変厳しい選考結果となってしまった。
新しさは必ずしも派手な形で到来するわけではない。むしろ現在においての決定的な新しさは、誰も気づかないうちにわれわれの内部に忍び込み、あるとき一気にわれわれをひっくりかえしてしまう類のものであるかもしれない。そう思えば、こちらの読み取り能力が足りていないかもしれない。その懸念が残って、いつまでも心は疼く。
以下、現地審査まで進んだ5作品の講評を記す。審査委員長であるぼくは、なぜ4組の建築家が選を逃したのかについても触れねばならないだろう。
中山英之さんの「孤と弦」での「住むこと」は、収納というカテゴリーに属する場を集めたテラス、水回りを集めたテラスという具合に、機能ではなく、住むことに伴う物的特性の分類で分割されたテラス間を訪ね歩くという、近代的な住宅が無意識に前提としてきた、住まい方から逆算された生の形とは大きく違う生の形を、もうひとつのオルタナティブとして、説得力をもって提示することに成功していた。このことは、人間の不定形なままの生が現実にはそうそうなく、あるとすれば震災で焼け出されたすぐの時などばかりで、しかしそれもあっという間にある形をまとってしまい、そして一度まとってしまえば、生はその形に縛られることを考え合わせれば、ぼくたちに、形はいつでも自分の意思で変えられる、ということを思い出させてくれる、稀有な建築的達成であると言える。建築についての従来型の価値観を前提とするのではなく、新たな価値観を築くというチャレンジを行ない、建築物として高いクオリティを築き、その試みが実装されうるエビデンスを示しえた点で、審査員全員が躊躇なく、氏に新人賞に推した。
高橋一平さんの「アパートメントハウス」は、1軒の「ハウス」を建てることさえ厳しい60.56㎡という狭隘な土地に、なんと8世帯からなる「アパートメント」をつくる、という驚くべきプロジェクトである。普通の家であるなら、風呂、台所、個室、と機能が振り分けられた部屋8室それぞれを1世帯のアパートメントとして再定義する、という解法で、クライテリア①からすれば、今回の応募のなかで、目に見える形でもっとも過激であり、その可能性を妄想させるに十分であった。②についても、プログラムの特殊性を巧みに建築に着地させていた。問題は、クライテリアの③で、住まい方を見せてもらった3軒とちょうど空いていた3軒から判断するに、氏が想定された生活様式の成立には疑問も残らなくはなかった。議論はそれでもつれたし、ぼくも最後までは胸を張っては推しきれなかった。
木村吉成さんと松本尚子さんの「houseA / shopB」は、架構(彼らは「構え」と呼んでいる)の設定が内包し、またそこから直接的に導き出せるものだけで、ひとつの建築をつくろうとしたものである。にもかかわらず、それが排他的な還元主義に陥らず、かえって全てのモノを物質として等価に扱うことに成功した建築であり、クライテリア②、またおそらくは③において、目を見張るべきレベルに達していた。ただし主題の前段、つまり「架構だけでつくること」は、そのままでは従前の建築にあってもその中核に位置する姿勢であり、そこにチャレンジがあるとは言い切れない。むしろ、後段の、にもかかわらずの開放性に、建築のあり方の新しい地平が切り開かれるきっかけがあるはずで、だからわれわれは、それらのあわいに位置する論理が何であるのかを議論した。新しさはそこはかとなく感じられる。しかしわれわれはついに残念ながら、明確にはその像を描き出すことができなかった。
古澤大輔さんの「古澤邸」は、強い幾何学的形式性を持たせながら、そのままでは還元・収束に向かいかねないところ、逆に開放性と多様性をもたらすことに成功した稀有な建築である。隅々まで行き渡る物質的思考の密度も精度も高かった。また、周辺住民とのコミュニティを築こうという姿勢やその実践も評価された。とはいえ、前段のモノとしての論理のなかに、後段のコトとしての論理が組み込まれ再統合され、そうでなければ生まれえない建築になっていたかというと、むしろ両者の論理がスパッと切断され、建築がモノとしての閉域論理に回収されているように感じられ、であるとしたら、その構図は従来的な建築のあり方から出ているとは言えないのではないか、という厳しい意見も出た。われわれは、その問いをついに乗り越えられなかった。
井坂幸恵さんと田邉雄之さんの「コロナ電気 新社屋工場 1+2期」は、多品種少量生産の工場の計画である。こうしたタイプの工場だからこそふさわしいアットホームな雰囲気を、真摯かつ丁寧に、中央ホール+周辺附属屋という構成によって達成した建築であり、操業を続けながら建て替えるという困難をクリアしつつ、建築の質としても大変に優れていた。すばらしい取り組みであり、すばらしい建築であった。しかし徐々にクライテリア①と③のウェイトが増していく議論のなかで、われわれはこの作品にそれに関わる強い論点をなかなか見出せなかった。
こうして今回の審査を振り返ると、ここまで挑戦的な射程距離の大きさを求め、かつそれがたしかに着弾したかのエビデンスをここまで望むべきなのかどうか、という感もしないわけではない。素直に「いい建築」で、「良質な建築」で、なぜ悪いのか? と。
しかし、このまったりとして、正論ばかりが、欠点のなさばかりが要求される、疲弊し窒息しそうな社会にあっては、そういう状況を果敢に転倒させてしまう建築的冒険を行なっている、それゆえにヴァルネラブルな「新人」を顕彰し応援することではないかと、ぼくは考えるのである。
宮本 佳明
どれも非常にレベルの高い作品群であった。思考の射程距離や着地した空間のクオリティはもちろんのこと、いずれもディテールに至るまで良く考え抜かれており、現地審査をしながら心から楽しむことができたというのが、正直な感想である。それだけに、それらに甲乙を付けなければならないことは大変難しい仕事であった。
中山英之さんの「孤と弦」は、展覧会などを通して素晴らしい建築であろうとは期待していた。ただ平面図を見る限り、少しの疑問があった。「孤と弦」といいながらピーナツツ型に歪んだ内壁(うちかべ)の存在がそのコンセプトを弱めないかという心配である。しかし実際には内壁は、外壁(そとかべ)との隙間を深さに応じて収納や水回りに利用することにより、内壁内部の人の居場所をむしろ純粋な「孤と弦」とすることに寄与していた。通風窓も普段は内壁によって隠されている。これらを可能にする巻戸と呼ぶ可動間仕切りも、アイデアだけではなくて緻密にディテールが詰められていて、十分に実用に耐える。一見ランダムな高さに置かれた10層の床が、実は洪水時の想定浸水高を起点として、そこにスライド書架やキッチンカウンターの高さを物理的なモデュールとして積み上げることで決定したという断面計画も興味深い。
矩形の敷地から楕円を切り取った残余の土地を中山さんは「敷地境界線の二重否定」と表現した。丸と四角は相性が悪い。普通にはネガティブなはずのヘタ地が、同じくネガティブな隣地の残余空間とコラボして、豊かな屋外空間をつくることを知った。
すでに実績のある建築家ではあるが、このプロジェクトの実現に苦節8年を要したという。プロジェクトスタート時の心意気は新人の名に恥じない。掲げたハードルの高さと、それを身を捩りながらクリアし切ったことは新人賞に相応しい。
木村吉成さん・松本尚子さん の「houseA / shopB」は、お二人が「トの字型」と呼ぶ目鼻立ちのくっきりした木造の骨格を内包する店舗併用住宅である。対照的に外皮は、ガル板小波、FRP折板といった軽い材料で「葺かれ」ており、カーテンウォール的な扱いである。加えて独特な手付きのディテールにはあちこちでニヤリとさせられる。近くディテール集も出版の運びと聞く。
それにしてもこの建築に漂う不思議な感じはどこから来るのだろうか。空間に慣れてきたころ、少し俯瞰的に設計の手順を振り返ってみた。すると、中抜きとでもいうか、通常の設計において当たり前のプランニングに相当する部分がほぼないのではないか、と思い至った。例えば住宅部分の壁1に対して窓2の規則正しい開口の配列。つまり住宅としては随分と壁が少ない。だが、どうもそういうことには興味がなさそうなのだ。ひょっとして骨格とディテールだけで成り立った建築? つまり骨と皮か! 面白いじゃないか。ただ、それが建築にとって本当に良いことなのか悪いことなのか、まだ上手く言葉にすることができなかった。それゆえ、最終2選に選んだものの、それ以上に強く推すことは思い止まった。すでに大きな建築も手掛け始めているようで、これからを見守りたい。
高橋一平さんの「アパートメントハウス」は、平面の極限的な窮屈さを、什器や設備の「選択と集中」そしてシェアに加えて、十分な天井高さを活用して立体的にも解決した、2階建鉄骨賃貸アパートである。意外にも豊かな生活の場がつくられていることに驚いた。住戸の真ん中に落ちるボックス柱も図面で見るほど邪魔ではない。クルドサック状の街区に立地していることが、街路に対して開放的なプランを可能にしている。荒川旧河道の川べりという敷地の来歴を正しく読み込んだ大変サイトスペシフィックな建築といえる。
ただ、偶然だとは思うが、現地審査で入居中の状態を見学できたのは道路とは反対側(裏側)の3戸のみで、街路や町並みとの新しい関係が期待できる南側4戸の内3戸は空室、残る1戸は固くカーテンが閉じられて見学はかなわなかった。高橋さんの説明で1階の道端にお年寄りが住んでいたことは確かだが、設計事務所勤務の入居者が多いことも含めて、一体これは本当に「アパートメント」なのだろうか、という疑問が払拭し切れなかったことは残念であった。
井坂幸恵さん・田邊雄之さんの「コロナ電気新社屋工場 1+2期」は、工場を中心とした施設ではあるが、一品ないしは少ロットで精密機器を生産するため、いわゆるラインを持たない。平土間の生産フロアとそれをサポートする管理・設計・休憩など設計者がUSBと呼ぶエリアの間に設けた1mの段差が特徴である。管理が生産に優越する訳でないが、段差が生む空間のヒエラルキーが両者に心地よい分節と緊張感を与えている。リフト付きトラックの普及で今や必須ではないが、元々は搬出入用のプラットホームの高さがレファレンスであろうか。もちろんそれで機能的な支障はないし、太鼓橋の立体交差もカワイイ。だが、もしこの1mの段差がなかったらどうだったろうかと考えてしまう。途端に、浮いたヴォリュームの連続がつくるファサードの軽快なリズムも損なわれるだろうし、極端にいうとデザインの拠り所が次々と崩壊してしまいそうな怖さを感じた。樹状に枝分かれする独立柱もしかり。確かに機能上不都合はない、でも、柱をなくすという選択肢もあり得たはずだ。
それら手法上の危うさを割り引いても、震災直後からの2期8年に及ぶ真摯な取り組みに好感を持った。新人賞の趣旨に照らして相応しいと僕は思ったが、共感を得るまでには至らなかった。デザインの根拠を建築自身に求める自律的な設計手法と非住宅はそもそも馴染みが悪いと、もし僕自身が無意識に感じていたのだとしたら不公平ではないかと自問してみたが、それ以上には強く推す言葉を持たなかった。
古澤大輔さんの「古澤邸」は、古澤さんにじっくり話を伺うのは初めてだった。こんなにずっと真剣に論理的思考を巡らしながら設計する人が世の中には居るのだということにまず驚いた。自分の怠惰さも思い知らされた。『メディアとしてのコンクリート』という書物があるが、この人はまさにコンクリートに対する新しい感受性を持っているのかも知れないと思った。古澤邸のコンクリートは、少なくとも僕が知っている強さや逆に柔らかさを併せ持つコンクリートとは違う種類の材料、つまり別のメディアとして何かを我々に訴えかけてくる。大黒柱的な架構は素直には大樹のメタファと解される。樹上に人々が実るさまには、ルキノ・ヴィスコンティの映画『ルードヴィヒ/神々の黄昏』の一場面を思い出した。美しい青年たちを枝々に休ませて見て愛でるシーンだ。
古澤さんは形式性を慎重に退けたといわれたが、ビルディングタイプよらずしばしば部屋の中央に居座る柱に、僕はどうしても何かもっと古澤さん自身が持つ原型のようなものを見てしまうし、そこにより内省的な思考を働かせてみることは何よりも古澤さんにとって重要なことではないかと思った。
今回奇しくも、5組の建築家がいずれも構造体という邪魔なものをあえて部屋の真ん中に据えた上で、改めてそれらの再定義を試みたようにも見える。2人が鉄骨を、1人はRCを、もう1組は木を、いずれも柱である。そして中山さんだけが、柱ではなく梁として、H鋼を上手に飼い慣らしていたように思う。
武井 誠
建築賞の審査の方法には大きく分けて2つある。ひとつは、書類審査、すなわち図面や写真といった2次元の情報のみで評価するもの。もうひとつは、建築の空間を実際に体験し、その建築を実際に利用している人からのヒアリングなどを経る現地審査によって評価するものがある。勿論、このJIA新人賞は後者であり、建築における実空間の質を丁寧に審査することを大事にしている。しかしながら、この賞が作品に対してというより、それを設計した建築家としての新人性を評価するものであることも特筆すべき点である。現地審査を行った5作品はいずれも完成度が非常に高く、だからこそ何をもって新人賞とするのか、議論は白熱した。中でも最後まで議論に残った(正確に言えば、議論に多くの時間を割いた)作品は、中山英之の「孤と弦」と高橋一平の「アパートメントハウス」と木村吉成と松本尚子の「houseA / shopB」であった。
中山英之による「孤と弦」は、設計者が描きだす恣意的な弧(曲線の壁)と弦(スラブのエッジ)との重なりの狭間で、一見するとクライアントの生活が押し込められているかのようにもみえる。しかし、弧は巻き取り式の浴槽の蓋を立てかけたようにめくれ、外壁との隙間に階段や給排水と換気のダクト、収納や機械室など生活を下支えする機能がプランニングと呼応し、最小限の奥行き寸法のダブルスキンになっている。弦の高さは、過去最大の浸水レベルから導き出された半地下の基礎天端を基準として、梁のレベル、梁成とスラブの位置関係、排煙と採光のために段差のついたバルコニーと室外機や物干し金物を通行人から目隠しするべく立ち上がった腰壁、移動式書庫やキッチンカウンター、テーブルやベッドの足の高さといった様々な水準で生じる段差寸法で決定されている。この複雑な連立方程式の解のような機能と断面の抜き差しならない関係を中山は敢えて説明しようとしない。複雑なジグソーパズルがたまたまうまく嵌ったかのような偶然を装う。一方で床と床を繋ぐ階段は、オーダーメイドの木製ステップではなく、既製品の素っ気ないアルミ梯子なのである。我々に単純な理解を許さないのだ。外に目をやると、どこまでいっても視線の止まりのない建物の緩いカーブの外観が、建物と隣地境界線との距離感を曖昧にし、窓の少ない外壁によって隣人の視線を気にすることなく互いの庭を共有できそう(例え気持ちだけだとしても)である。このような建築内部の身体的寸法と敷地のコンテクストと建物配置の関係を同一レベルで思考する姿勢は、中山特有の建築の他律性と自律性の均衡であり、新しい機能主義と呼べないだろうか。この「他者が建築から何かを発見する歓び」をさり気なく建築に潜ませる建築体験者への気配りが、彼の独創的な設計手法であるとすると、対象が不特定多数の人々が利用する大規模な公共建築であったとしたら、理屈抜きで楽しい体験が誘発される場になるのではないだろうか、と期待が膨らむ。今後の活動に期待を込めて満場一致での新人賞受賞となった。
高橋一平による「アパートメントハウス」は、賃貸アパートであるにも関わらず、現地審査で多くの室内を拝見することができたのは幸運だった。誤解を恐れずに言えば、一般的な賃貸住宅でインストールされるべき機能の一部が『欠けた』空間に放り込まれ、もはや何処に家具を置いたら良いのかも分からなくなってしまう、今までにない感覚に陥った。向かい合う部屋の扉も同時に開いたらぶつかってしまう程の狭い廊下を行き来しているうちに、身体が通常とは異なる動きをしていることに気づき、生活空間がモノではなく行為によってつくられるとする高橋の説明を思い出した。かつて機能から効率的な空間形態が導き出されてきたが、人間本位のプリミティブな『振る舞い』から設計を始めることで、集まって住む新しいカタチが発見される(つくられる)べきではないかという仮説である。今までの集合住宅においての慣習的な機能的な設えが、突如失われた瞬間、戸堺や敷地境界、街区を超えて、都市に広がり始めるのではないかということだ。新しい集合住宅の在り方として大いに可能性を示唆している。
木村吉成と松本尚子による「houseA / shopB」は、敷地の奥行き方向へ連続するトの字門型フレームのピッチの間に挟まれる設えが、1階の店舗と2階の住戸で異なることによって、単純な架構でありながら多様な居場所を作り出している。隣地の敷地を購入する予定があることから、その面の設えは鉛直荷重だけを受けるポスト柱と簡易に取り外せるFRPの波板のみとし、隣地へ接続可能な構造としている。このように評すると、木村松本は構造表現主義のようにみえるが彼らはそれを最も嫌う。設計段階で建築家が全てを決めきることは建築に本来備わっているべき、持続性を失うものであるとし、構造を構造として扱わずインテリアとしての『モノ』のように振る舞わせることで、スケルトン・インフィルでも、メタボリズムでもない、建築の冗長性に富んだ新しい骨格を提示しようとしている。
ここで最後まで評価が分かれた高橋の「アパートメントハウス」と木村松本の「houseA / shopB」について述べなければならないだろう。「アパートメントハウス」はその極小空間故に、設計理論の新しさが実社会の賃貸流通システムの中で本当に成立するのか? 個人的には、ほぼ建築形式としては固定されつつある集合住宅というビルディングタイプに一石を投じたという点において、建築の新しさと同時に、その窮屈でたまらない身体に訴えかける空間こそが、建築でしか成し得ない創造行為そのものであり、それを実行する高橋の能力は新人賞に相応しいと思ったのだが、実際現地を訪れてみると、人々のリアルな暮らしを想像することができないという厳しい意見が出た。「houseA / shopB」は、建築の全体から部分に至るまで解像度の高いディテールで構築されており、職人がつくったかのようなモノの強度を持ち合わせていた。それがある種、建築の社会に対する新しい開き方とも捉えられる一方で、木村松本の設計思想が「構え」といういさささかふんわりとしたものであることに象徴されるように、作品を通して彼らの建築の新規性を言語化できなかった審査委員の歯がゆさが、残ってしまった。
思い返せば、私が11年前の30代半ばにしてこの賞を頂いたときは、建築家として評価されるような経験も無かったし、設計思想も確立されていなかったように思う。荒削りながらも「建築」そのもの、あるいはこれからの活動に対する期待値を込めて評価して頂いたのではないかと記憶している。やはり、新人賞は「建築」にしかできないことに対して、果敢に挑戦する姿勢を保ちつづけながら、新しいビルディングタイプや建築形式、構法やディテールを駆使して、たとえエビデンスがなかったとしても実空間の体験を通して、如何に社会に接続できるか、その努力を惜しまない建築家に贈られるべきだと、改めて認識した。