JIA 公益社団法人日本建築家協会

JIAの建築賞

JIA 優秀建築選JIA 日本建築大賞・JIA 優秀建築賞

審査委員講評

2023年度 審査委員講評

松岡拓公雄(審査委員長)

 選定基準というものは時代が要請するのかもしれない。学会の基準の違いもあるが、やはり建築作品そのものに注目してしまいがちだ。私自身は建築家の役割というものを問いながら審査に望んだ。建築家の職能を考えさせられる活動が主たる作品も増えている。空間を追求していく作品も一方で深みを見せ、その職能範囲は幅広く深い。建築が面白いのは、やはり社会の中で人々を生かしているということだ。それが美しい形態と表情であればさらに良い。今年は木造、木材を扱ったものが共通して意図せず選定されている。これも環境の時代の表れだろうか。
 審査は194の応募作品の中から書類審査で100選、その後5作品に絞り現地審査を行った。書類審査では傾向として昨年と同じく単なるコンセプトよりもシナリオに重点が置かれている作品が多かった。絞っていく過程では空間時間人間の起承転結が明快なものを選んだつもりである。5作品はそれぞれのシナリオの良さに、私は加えてそれが社会にいかに貢献するであろうかという視座に重点を置いた。
 「52間の縁側」はその長さにまずは驚く。タイトルも縁側と呼ぶに相応しい。この建築が生まれる背景にはクライアントの活動と強い意志と目的があり、建築家はそれに長い時間をかけ対峙し共鳴して高みに導いた建築となった。建築家の役割を見事に果たしていることが、利用者の満足感や話から伝わってきた。現地審査でないと分からない局面である。布石として三つの機能が長い縁側にあるが、これらは時間をかけ変容する可能性がある。建築家はそれらを仕掛け、成功している。木構造のディティールはローコストでの工夫はあるが改善の余地が多少あるように見受けられた。それを超えてメンテナンスを自らやる人のように利用者が率先して体を動かして関わっていく姿、笑顔に溢れている利用者の「とも生き」に共感を覚えた。この場の持つ力が建築の出現によって人にも力を与えている。多数で日本建築大賞作品に残った。
 「春日台センターセンター」は建築学会賞に選定された作品であるが,学会賞よりもJIAの賞がふさわしいと思う。このプロジェクトも「52間の縁側」と同じように建築家の長期にわたる活動の成果である。弱者のための施設を内包し、その地域のコミュニティセンターとして、しっかり生活の視点で地域に馴染んでいる。地域の核になるべく計画され、そのきめの細やかさが随所に見受けられ、建築よりも建築家の尽力が魅力的だ。美しさという視点はさておき親しみ易い建築としては抜きん出ている。
 「後藤邸」はワンルームの概念を覆している。室内に飛び交う梁が視線を遮りながら個々の空間を繋ぎ、不思議で魅力的な空間を生み出し建築家の住宅へのチャレンジが漲っている。汎用性は低いと思われるが、全く新しい境地は建築家としての哲学が空間として見事に形になっている。
 「高槻城公園芸術文化劇場」は豊かな歴史的な敷地を生かし、地元の木材を多用し歴史と文化、そして生活も繋ぎまとめ上げる力量は建築計画学的に成功させ、しかも全体のプロポーションや素材が美しい。木材を適材適所に活かし、分節化したRC構造の内外にまとわりつかせ豊かなシークセンスを生み出している。木質の肌触りの良い空間は公園と連続し一体化し、市民にとっての公共建築として素直なあり方を提言している。
 「茨城県大子町新庁舎」は、建築家が正面突破で挑んだ緻密な木構造とディティールをシステム化し、気迫のこもった傑作である。自然災害の余波で敷地が代わり何度も根底からやり直し昇華していくプロセスが凄まじい。しかし賞には残らなかった。このような建築を本来落としてはいけないはずだが賞の数の問題と審査員の評価基準とは少し乖離していたのだろう。残念であったが木造庁舎として歴史に残る作品であるのは間違いない。

小泉雅生

 まず、公開審査でプレゼンテーションをされた5組の建築家の皆さんに、心から敬意を表したい。敷地変更を伴う5回にも及ぶ設計変更の末、無事竣工へとこぎ着けた遠藤克彦氏、事業者と長きに渡って併走し、その間の社会状況の変化や数々の障壁を乗り越えながら地域の人々に愛される建築を実現した金野千恵氏、山﨑健太郎氏、また長きにわたるホール建築の実績や歴史研究の成果を踏まえ緻密な計画を実現された日建設計の江副敏史氏、後藤武・千恵氏。いずれも、これらの作品ができあがるまでに、並々ならぬ労苦があったことと拝察される。これほどまでに重い思いが込められた作品をおこまがしくも審査をすることとなり、誠に荷が重かった。いずれも建築家の職能がいかんなく発揮されたプロジェクトであり、建築家協会の主宰する賞にふさわしい建築作品であった。
 公開審査では、私は「後藤邸」を推した。自らが居住する自邸であり、そこで行われている建築的操作も極めて私的である。今はやりの住み開きといったこととも無縁で社会性は乏しい。しかし、様々なレベルで「仕掛け」が施され、知的ゲームとしての建築の魅力を再認識させるものであった。敷地へのアプローチを含め、迂回を繰り返す動線は、いつまで経ってもたどり着けないカフカの「城」を思い起こさせる。積み重ねられた「梁」も、構造表現を前面に出したものでありながら、合理性からは遠く離れたものである。設計手法という意味でも、容易に全容をつかませず、迂回を強いる極めてユニークなアプローチだった。実地に空間を体験してみると、時間軸、空間軸での広がり、豊かさが感じられ、POST-やDE-といった奇をてらったゲームにとどまらない、極めて精緻な空間モデルであることがうかがえた。
 もう一つ気になったのは「春日台センターセンター」で、経済成長期に開発された何の変哲もない郊外型の住宅地において、シビックプライドを生み出さんとする、小規模ではあるが壮大なプロジェクトであった。各地でそのような住宅地の持続可能性が取り沙汰されているが、老と幼、官と民、健常者と障がい者、食と衣、様々なレベルで横断的に物事を捉えることで、その突破がはかられている。過度に専門分化が進む現代社会への痛切な批評であり、そのスケールの大きさに感銘を受けた。
 最終的に大賞として選ばれたのは「52間の縁側」であった。「縁側」という空間形式が人々と触れあう機会を生み出すという語り口自体に新味はないが、それを拡大したスケールに置き換えることで、種々の可能性が切り開かれている。極端に引き延ばされた平面によって、シンボリックなフォルムが導き出され、さらにそこに離散的に居場所が設けられ、異なる立場の人々が無理なく共存する風景が描き出されていた。また、鳥かご状の架構に小屋状のボリュームが挿入され、多くの隙間を内包したポーラスな建築となっていることも印象的だった。ポーラスな建築は、外部との接触面積が多く、周囲との親和性が高い。ゆえに地域にも溶け込み、多くの人々を呼び寄せることにつながっている。一方、外部との接点の多さは、他の動植物や自然による浸食をも受け容れざるを得ない。だから朽ちやすくもあるはずだ。一般的に朽ちやすい建築はネガティブに捉えられる。しかし、逆の方向から見れば、朽ちない建築というのは周辺環境の中での異物であり続けるわけで、環境に優しくないオブジェクトともいえる。ポーラスなこの建築が、どのように人を惹きつけ、多くの生き物を宿し、環境と共存していくのか、これもまた、壮大なスケールの社会実験なのだろう。その行く末を見届けたい。大賞にふさわしい作品といえよう。

原田真宏

 建築大賞の審査委員は今回で2度目になるが、それぞれ異なった規模、用途、そしてそもそも優れた多数の作品の中から、ただ1点の「大賞」を選ぶという無茶な話で、毎回なかなか苦労する。ただ、この時ほど「建築とは何か?」について、真面目に考える機会もそうはなく、その点だけは怠けがちな私にとって大切な時間になっている。
 「建築」には当然いろいろな要素があるが、その中でも審査を進めていく内に、審査の尺度として、一つの主要な切断面が顕わになってくることがある。それは今回、私には「施設(シセツ)」と「建物(タテモノ)」、そして「建築(ケンチク)」。それらの意味と相互の関係性、として意識された。

 まず、建築は「施設」として社会から要望される。これが建築の生まれる動機である。ある必要な機能を果たすこと。要望機能として使える部分は何もない虚ろな部分、つまり「空間」なので、その配置パターンや接続の仕方など、いわゆる「空間構成」が優れていることが重要になる。これは建築学というアカデミックな分野で蓄積され磨かれてきた計画学上の尺度によって評価され得る。空間構成としての適切性や新規性、そして世間一般で適用できるだろう普遍性。これらは建築を評価する尺度として重要なものになるわけだ。今回も多くの作品は、クライアントからの要望や社会の潜在的な要求に対して適切に答え、尚且つ普遍的な処方箋となりうるような「施設」としての価値を有していた。しかし、それだけでは何か「建築」には物足りないようだった。

 次に先述の「空間」をどのようにして具体化するか。モノの「構築」という側面での建築の現れ、つまり「建物(タテモノ)」という評価軸だ。適切に構築された物質の統合体は、その周囲に好ましい「場所」を生み出すものだが、それは空間とはまた異なった重要な建築的環境の成分になる。そういった構造的、構法的、あるいは素材的なトライアルは、ホモ・ファベル(工作人)としての人間の本性に強く共鳴し、空間とはまた違った普遍的絡路によって一般の人々をも魅了していくような、強く深い共感作用を生み出す。人文・社会学的「空間構成」に対して、自然科学的「物質構築」。この「建物」として優れた作品も数多くあり、実はファイナルに残らない作品にも強く惹かれたものもあったが、それでもそれだけでは「建築」には何か足りない。

 では、優れた「施設」であり、同時に優れた「建物」であれば、「建築」として優れているのか、というとそうでもない。施設空間の中で行われる「コト」あるいは「プログラム」と、構築物としての「建物」が、すれ違っている=無関係である場合には「建築」として立ち現れてこない。つまり、ある「施設/空間構成」を物質的に実現する「建物/物質構築」が、他と入れ替え可能であるような場合、それは空間構成と物質構築が緊密に結びついていないことになり、「建築」に至らないのだろう。評価項目的に言えば、施設=満点、建物=満点、であっても建築=満点、にはならないのはそんな訳だ。

 そんなことをつらつらと審査が進む中で考えていたが、改めて大賞となった「52間の縁側」を振り返ると、この作品は「施設」の目的と、「建物」のあり様が、最も強く結びついていたように思われたのである。認知症も抱えるような老人を、従来型の老人福祉施設のように保護対象としてただ無事故安全にケアするだけでなく、一人の社会を構成する重要な人間として認めることがこの「施設」の目的としてあり、それを「建物」が誰もが理解でき手出しもできる分かり易い木造構築体として実現され、さらに言えば構造が若干華奢であるなど手を貸したくなるような「良い加減の良くできて無さ」が仕込まれていることで、通常は保護対象の老人たちが、むしろ建築や運営を保護する主体へと転換されたのである。実際、彼らの手によって、指定外の色で塗り重ねられた木材保護塗料や、勝手につけられたブランコ、誰かが作ったウサギ(?)小屋など、老人達の参画を建物が呼び込んでいる様子は、先の意味での「建築」としての説得力を放っていて、それが私には大賞に推す決め手となった。

 良き施設、良き建物、そしてそれらを前提的に超えた、良き建築。
私も探究を続けたいと思う。

大野博史

 本年度より審査員を担当させていただいた。紙面により優秀建築選100作品を選び、その中から日本建築大賞を現地審査、公開審査を踏まえ決定するという大役を一構造設計者にお声がけいただき大変光栄なことである。審査に際しては、専門的な視点を活かし、構造設計の合理性や新規性、提案性を元にしたいくつかの評価基準を設定することを模索したが、この賞が建築家協会主催による建築作品に与える賞であり、構造設計の優劣にのみ拠るべきではないとの認識に至った。構造が合理的であっても建築的魅力を欠く場合もあれば、構造が不合理であっても建築空間や社会的意義を有する建築物も多々存在する。その構造設計にいたった諸条件の整理の仕方や問いの立て方とその解決方法に一定の論理性があること。構造が見えるか見えないかにかかわらず建築表現として一貫性があることを評価において重視すべきと、考えるように至った。構造設計はえてして経済原理に基づいた正しさを求めるが、多様な価値観のもとに設計される建築は、その正しさのみでは決定しない場面が多く存在する。その多様性の一端を担う構造がどのような姿勢をとるべきか、審査に当たり深く考慮することとした。
 今年の大賞に輝いた「52間の縁側」は、写真で見る以上に素朴でありながらも身体的な感覚を強く刺激する空間であった。その長い建築は、敷地の高低差を顕在化させ、周辺環境の多様性と内部空間が見事に調和していた。長い建物形状は、敷地をアプローチ側の外部環境と、施設利用者のための守られた庭とに、柔軟に区分けすることに一役買っていた。また、道路側の既存建物と一体運用することで中心を生み出すことにも成功していた。在来軸組み工法による仕口に頼らない接合形式を採用することで、木造架構の簡素さが強調されていた。柱梁筋違いが分節されるこの形式は、架構の成り立ちを理解しやすいデザインであり、利用者自らが建築をカスタマイズする際の動機づけにもなっていると感じた。「福祉施設」という言葉がもつ計画的で管理された閉鎖空間とは異なる建築がここにはあった。耐久性に関する懸念も見受けられたが、この運営者と建築家の連携であれば、問題を前向きに解決していくだろうと強く感じさせる作品である。
 優秀建築賞として選ばれた「春日台センターセンター」も福祉施設である。通りに面した大きな屋根をもち、7つの機能を備えている。ロッジア空間の研究実績をもつ建築家の独自の視点から生み出された内外空間を見事に体現しており、常に活気にあふれた印象を与えていた。地域の核が人口減少、高齢化、社会構造の変化により失われ、疲弊していく地方地域は、今後ますます増加するだろう。そうした状況において、この作品は、福祉施設を通じて地域の絆を再構築する試みを見事に実現しており、極めて稀な状況を成功裏に導いたプロジェクトとして賞賛に値する。規約の関係で、私が構造設計に関わったため、審査中は一切のコメント、助言、投票への参加は控えたことをここに明記しておく。
 「後藤邸」は建築家による自邸の作品である。大きなワンルーム空間が、積層する浮いた壁(梁)によって緩やかに分節されており、一つの場所にいながら、他の空間の気配を感じさせる建築作品だった。明快な空間構成はときとして凡庸で窮屈な印象を与えるが、ここでは多様で広がりのある居場所が用意され、魅力的な建築作品として評価できる。
 「高槻城公園芸術文化劇場」は法体系や劇場計画に精通したチームにより実現した高い完成度を誇る作品である。高い密度の設計と高度な技術力により、高性能の公共建築が生み出され、建築の信頼を高め、建築文化の発展に貢献する素晴らしい作品である。
現地審査に残った「茨城県大子町新庁舎」も、災害を乗り越えたプロセスを含め素晴らしい公共建築であり、それらの中から一つの大賞を決定するのはとても難しいことであった。どの作品も大賞にふさわしい作品であったこと、さらに今年は二つの福祉施設が残ったことを記憶に留めたいと思う。

宮沢洋

 「建築」や「建築家」の可能性を広げるものを選びたい――。今回で3回目となる審査も、そんな姿勢で臨んだ。
  実は毎回同じ書き出しでこの講評を書いてきた。それは、建築を社会一般に開くことに少しでも貢献したいと考えてきたからだ。今回が最後の審査なので、まず、そのことについて少し書きたい。
 JIA日本建築大賞が他の建築賞と異なる点は2つあって、1つは最終審査が「公開」で行われること。もう1つは「メディア枠」の審査員が含まれていることだ。筆者はそのメディア枠審査員である。
この2点について、どういう理由でそうなったのか、審査員を引き受けるときに調べてみた。だが、明確な理由を記したものは見当たらなかった。見つからないので自分なりに考えた。思い至ったのは、建築の賞を“閉じたムラ社会の議論”から開きたい、と考えたのではないかということだ。
建築専門誌の編集者を長くやってきたので、雑誌に取り上げたくなる建築は大体分かる。大きくいうと2つの方向性があって、1つは「高度に洗練された建築」。もう1つは「建築や建築家の可能性を広げる建築」だ。
何を取り上げるかを判断するときの心持ちを白状すると、前者の「高度に洗練された建築」の方が取り上げやすい。リスクが少なく、安心だからだ。一方、後者は挑戦している分、リスクをはらむ。強く推すのには勇気がいる。でも、この賞では一般の人に伝わりやすい後者を推そうと決めていた。

 今回、現地審査対象となった5件の印象を、「どんな可能性を開いているか」という視点で見出しにしてみた。(応募番号順)
・「 茨城県大子町新庁舎」(遠藤克彦:株式会社 遠藤克彦建築研究所)
→「 地域の木材を使った樹状架構による視覚的変化に富んだ庁舎空間の可能性を開く」。

・「 52間の縁側」(山﨑健太郎:山﨑健太郎デザインワークショップ)
→「 一直線の配置による行動と情動がもたらす偶発的な交流促進の可能性を開く」。

・「 後藤邸」(後藤武、後藤千恵:株式会社後藤武建築設計事務所)
→「 ワンルームでの上下空間のズレや内外の錯覚など小住宅での新たな空間体験の可能性を開く」。
・「 春日台センターセンター」(金野千恵:teco)
→「 地域性を踏まえながら事業面も緻密に練り込んだ計画的多交流の可能性を開く」
・「 高槻城公園芸術文化劇場」(江副敏史、多喜茂、高畑貴良志、差尾孝裕:株式会社日建設計)
→「 分節型の構成と木ルーバーによる共用空間重視の劇場の可能性を開く」。

 ワンフレーズでまとめるとそんなところか。どれも新たな可能性に挑んでいるが、「茨城県大子町新庁舎」と「高槻城公園芸術文化劇場」はどちらかというと洗練の印象が勝っていたので、筆者は残りの3つを推した。
「後藤邸」は、一般の人には想像しにくい空間だと思うが(筆者も図面では全く分からなかった)、これは洗練とは逆方向の挑戦の塊だ。小住宅にもまだこんな面白さがある、専門家たちはこれを見てザワついている、という温度感は一般の人にも伝わるのではないか。

 「52間の縁側」と「春日台センターセンター」は、考え方が対照的でありながらどちらも先進的・挑発的なケア施設で、甲乙つけがたかった。最終の1票は、未知の期待感の大きい「52間」に入れた。本当に起こるか分からない未来のリスクを指摘したくなる自分への反省票でもある。最後となる審査で、2つの魅力的な建築が文化施設でなく福祉施設で見られたことに、今後への頼もしさを感じた。
なお、筆者は「高度に洗練された建築」も大好きだ。そちらの方向性の設計者の方にはこの場を借りてお詫びしたい。JIA日本建築大賞の審査でなければ喜んでそういうものも推すので、ご理解いただきたい。