はじめに
JIAが建築家資格制度の問題にとりくみ始めたのは1992年であるが、その前、1990年秋のJIA大会で、私は一つの提案を行った。即ちJIAの自主認定による建築家資格制度の創出である。建築家とはどのような職業者のことを言うのか、JIAにはそれを明確にすべき責任があるのではないか。そのためには建築家と呼ばれる者の資格の内容を社会に向かって具体的に示すことが必要ではないか、国が今直ちにこれにとりくむ事が困難であるとすれば、JIAが独自に自主認定の形で建築家資格をつくるべきではないか、と訴えたのである。以来やがて10年の歳月がすぎようとしている。
端的に言って、日本には建築家の資格制度は存在しない。建築士制度があり、建築士という資格があって、法制上は建築家もこの制度のもとにあるのだが、士法を建築家の資格制度として見るならばこれは極めて特異な制度と言わざるを得ない。それは士法が1950年、日本中の都市が未だ殆ど空襲による廃墟のままに近かった当時の情況の中で、その急速な復興と建設への期待を担って制定された、という経緯による所が大きかったと思われる。その特異な性格については後でのべるとして、この制度は建築基準法とあいまって、期待にたがわず戦後の都市の復興に大きく寄与したのであり、その功績は決して小さくはなかった。だが、問題は1950年という時代的背景のもとでつくられたこの制度が、その後の驚異的な経済成長、技術の発展、社会情況や産業構造の変化、建築物の大規模化複雑化、或いは消費者運動の高揚や製造物責任の追求、更には地球環境の危機の指摘など、社会のあらゆる面で想像すら出来なかった情況を迎えていながら、今日迄殆どその特異な性格を変えることなく生き続けてきていることにある。時代の変化が士法の改変を要求し、建築家資格の確立を求めているのである。
プロフェッションと資格制度
プロフェッションと呼ばれる職業には、ある範囲内での裁量権と決定権とが与えられている。それがなければ、依頼者の要求に対して、プロフェッショナルとして最も適切でふさわしい対応をすることができないからであり、従ってその職業者には裁量権、決定権にふさわしいだけの専門的な知識と倫理とが備わっていなければならない。それを保証するのが資格制度なのである。職業選択の自由という近代社会の大きな原則の中にありながら、プロフェッションと呼ばれる職業には厳格な資格審査が要求され、同時に資格者としての果たすべき責任が求められる。建築家の仕事、建築の設計監理という仕事は、クライアントの生活や活動のための場所のしつらえをきめる仕事であって、クライアントに対し、貴方の生活や活動にはこれが最もふさわしいものですと言ってきめてしまう、その膨大な建設の為の資金、お金の使い方もきめてしまうのである。しかも、クライアントは出来上がったものを見て買うことができない。見られるのは図面とせいぜい模型位で、あとは建築家の説明をきくだけで莫大な費用のかかる買物を先物買いせざるを得ないのである。それだけではない。出来上がった建物は社会の資産として町並みをつくり都市をつくり、都市生活の安全と快適さと美観とに大きくかかわっていく。その建物のありようをきめていくのが建築家の仕事である。それにこたえられるだけの最低の能力と倫理とを資格という形で国民に対して保証するのが建築家の資格制度であり、国民の利益を守る為に、建築家をしばる制度なのである。そういった観点で建築士法を見た時、果たしてこれで国民の利益を十分に守ることができるだろうか、それが建築家資格を考える出発点なのである。
士法のアーキテクトとエンジニア
士法の特異な性格の一つは、それが建築物の設計、工事監理等を行う技術者の資格を定めた法律であり、その技術者の中にアーキテクトもエンジニアもすべて包含しているという点にある。これは世界では珍しい資格制度であって、英訳士法ではその概念に該当する訳語がないために、ローマ字でそのままKenchikushiと書かれている。士法が制定された時の解説書(注)には「欧米におけるアーキテクトは、ストラクチュラルエンジニアに対して、意匠や設計(デザイン)を主として司るものとして、考えられているようですが、本法による建築士はむしろ建築物の安全性に責任をもつことが主たる任務と考えられている点で、重点のおき方が多少異なっているようです。これはわが国におけるこの方面の職能分化がおくれていることに起因するものですが、将来日本に於いても構造や設備を専門とする構造士、設備士のような技能資格制度が行われるようになった場合は、建築士の性格も再検討されてよいと思います。併し、現在の所では先ず第一に構造の安全性が要請されるのは、当然のことと言えるでしょう。」と書かれている。当時は士法制定の重点が構造エンジニアにおかれ、そのため土木専攻の者にも建築士の受験資格を与えたのだと思われる。アーキテクトの方がそえものだったのであろう。
今は、言うまでもなく、構造や設備の分野の学問や技術は当時とは比べものにならない高度のものとなって、一人の人間が建築も構造も設備も何でも出来る、などということは殆どあり得ない情況になっている。従って建築士をこのような部門に専門分化して、それぞれの専門領域での責任を明確にすべきだと言う議論は、恐らくは20年位前から建築審議会などでくり返し議論されながら、その都度反対にあってうやむやになって来たのである。
反対の理由は、建築士としてのオールマイティーな業務独占という既得権の侵害になる、という点にあったと思われる。残念ながら、資格が国民の利益を守る為にあるという本来的な認識にかわって、資格者の権利、権益を守るものだという誤った意識が身についてしまっているように思われてならないのである。
ようやく1983年士法が改正され、1985年の告示によって建築設備士の資格が定められたことは、専門分化への第一歩ではあったのだろうが、意見をきいたときは云々という中途半端な表現にとどまっており、一方の構造エンジニアについては今日迄全く変っていない。その間に、社団法人日本建築構造技術者協会が発足し、建築構造士の自主認定にふみきったのである。士法が現実の社会の変化に対応できないでいるうちに、建築家資格の国際的な相互認証は今やWTOマターとなり、又エイペックエンジニアという国際的な資格を目指す動きも急速に進みつつあることなど、世界の大きな動きの中で、今や建築士はアーキテクトとエンジニアの問題で引きさかれるかも知れない事態を迎えているのである。
プロフェッショナルロウと資格法
士法の特異な第二の点は、殆どの諸外国のアーキテクトロウが職業法、プロフェッショナルロウであるのに対し、士法が資格法であるという点にある。建築の設計監理という業務は建築士でなければ出来ないにも拘わらず、他人の依頼をうけ報酬を得て業とするのは、管理建築士をおけば誰にでもできるのである。建築家という職業は依頼者の利益に深く関与し、社会公共の福祉に大きな影響を与えるものであるからこそ厳しく職業規制をすべきだ、と考えるのが世界の常識であるのに対し、日本では職業選択の自由が優先しているのである。しかし職業規制が全くない訳ではなく、業とする為には建築士事務所を設けることなど、いくつかの規定があり、最近は更に改善されてだいぶ職業規制の内容が整って来ているのだが、問題はこれがあくまでも建築士事務所に対する規制、開設者に対する規制であって、建築士そのものが対象ではないことにある。建築士を依然としてプロフェッショナルとは認めていないのであり、建築士に求められるのはあくまでも技術者としての能力と義務であって、職業者としての義務や倫理責任は問われていない、それは事務所に対し、開設者に対してのみ求められているのである。これが恐らく今日の大学等における建築教育の中で職能教育が殆ど全くなされていない大きな原因の一つであろう。諸外国においては資格は職業資格なのである。これに対し、日本では技術は建築士に、業としての責任は事務所にあるという、分裂した資格制度となっている。この日本独自のシステムは今後国際間での相互交流、資格の相互承認が具体化するに従って、業務の局面においていずれ大きなギャップとして浮かび上がってくるに違いない。
諸外国において、プロフェッショナルではないアーキテクトなどという概念は理解することは出来ないに違いない。特別の知識と倫理とが求められるプロフェッションの領域において、誰でもが職業の自由を旗印に勝手なこと、例えば勝手に医者になられては社会が困り国民が迷惑をする、それ故そのような職業者にはプロフェッショナルとしての厳しい資格が要求されるのである。日本においては建築の設計監理という職業は未だにそのようなプロフェッションとして法的には認められていないのであり、建築というものがそれ程国民の利益に深く関わっているものではない、と考えられているのだとすれば、極めて残念なことと言わざるを得ない。
新しい資格制度へ
もう一点士法の問題点をあげるとすれば、建築士試験の受験資格についてである。学歴にも大きな問題があり、試験のあり方そのものにも問題があるが、中でも大きな問題は卒業後の実務経験に全く内容がともなっていない点である。建築士法施行規則には「実務の経験には単なる写図工若しくは労務者としての経験又は単なる庶務、会計その他これらに類する事務に関する経験を含まないものとする。」とあって、設計工事監理の経験に特定されていないばかりでなく、経験年数さえ経っていれば、その間殆ど何をしていてもいいのに等しく、その経験内容についての認定も全く行われていない。
このような建築士の資格制度のままでは、建築物の設計工事監理を行う者として、到底今日の社会の負託に応えることは出来ないのではないか、今直ちに建築士法を改正することが困難であるならば、それに変わる方途を探るべきではないか、と考えて発足したのがJIAの自主認定による建築家資格制度の検討であった。国民が安心して、信頼して設計監理を依頼することのできる建築家、資金を預け、その使途の決定を委ね、生活と活動の場所のしつらえを任せることのできる建築家として、最低限必要とされる資格はどういうものであるべきか、その研究を開始したのである。後になって、急激な国際間の動きに対応し、国際的に通用する資格とするためには国によるオーソライズを欠くことができないとの判断から、自主認定を第三者認定へと切りかえ、教育、実務訓練、登録試験/審査、継続職能研修という、4段階にわたる一貫したシステムとしての建築家資格制度の素案を、広く関係諸団体に提示し、意見を求めて来たのである。
世界の動き
一方世界に於いても、建築家のプロフェッションは大きな試練の中にあった。第2次世界大戦後の大きな変化の中で、CMなど次々と新しいプロフェッションやデザインビルト、ターンキーなどの多様な調達方式が生まれ、建築家のプロフェッションとしての地盤は次第に沈下をしたのである。それに対しAIAやRIBAは新しい社会情況の中での建築家プロフェッションのあり方を必死に追求し、クライアントが建築家をどのように評価をし、満足をし、或いは不満を持っているのかを真剣に調査し、戦略をたてて懸命に信頼の回復を図って来たのである。こうした中で貿易の自由化、市場開放という世界の大きな流れが建築家の世界にも及んで、1993年にはウルグアイラウンドの最終協定が結ばれ、1995年1月GATS、サービス貿易に関する一般協定が発効して、建築家を含むプロフェッショナルサービスの分野も市場開放の対象となったのである。その自由化にとっての大きな問題は、それぞれの分野で各国の持つ資格制度が非関税障壁となることであり、それを除去するために、国際間における資格の相互認証が大きなテーマとなった。UIAが職能実務委員会PPCを発足させたのは1994年、東京で開催されたUIA理事会に於いてであり、その事務局となったAIAと中国建築学会の極めて精力的な作業によって、1999年6月北京におけるUIA総会において「建築実務におけるプロフェッショナリズムの国際推奨基準に関するUIA協定」が採択されたのである。これが今後WTOにおいて、建築サービスの相互認証に関しての指針がつくられていく時に、それに大きな影響を与えることは必至であり、日本と他の国との間での2国間交渉が持たれるとすれば、その時これが交渉のべースになることも又間違いないのである。
国際化への対応
この国際的な動きに対して、建設省は1997年建築技術教育普及センターに対して、国際対応に関する研究課題を出し、普及センターは「建築設計資格制度の国際相互認証のためのフレームワーク検討委員会」を発足させ、建築各会をはじめ学識経験者を以て委員会を構成して検討を続けた。そして1999年の5月、報告書が建設省に対して提出されたのである。この委員会において議論のベースとなったのはUIAアコードであった。この報告書に、必ずしも明確な対応が記されたわけではないが、教育については大学院を含めて考え、一級建築士をベースとし実務訓練等で足りない所はこれを補って対応する、という方向で基本的な合意がなされたのである。そして今、ようやくその報告を更に具体のものとすべく関係6団体(JIA、士会連合会、日事連、建築業協会、建築学会、建築技術教育普及センター)によって建築教育資格検討協議会(仮称)が発足する運びとなってきているのである。
今、世界の中では、国家間で建築家資格の相互認証を目指す動きが急速に進み、中でも中国の動きは特に際立っている。中国は建築師の資格制度を制定するのに際し、日本や香港、米国その他多くの国々の制度を研究し、米国の資格が一番レベルが高いと判断してその制度を殆ど全面的に採用したのである。そして日本の士法にならって一級と二級の制度を設け、一級は国際的に通用する資格として大学は5年、実務経験は3年以上、二級は国内のみに通用する資格として大学4年、実務経験2年としたのである。中国はその制度を急速に整備し、既に実施に移しているばかりでなく、早くも米国との間で相互認証へ向けての交渉を開始しているという。99年に来日されたジャン・キ・ナン氏、中国建築学会副会長として米国と共にUIA
PPCの共同事務局を務められた氏によれば、現時点ではお互いに相手国のアーキテクトと組めば仕事をすることが出来る、そして2002年を目指して相互認証の交渉を続け、成立の暁には相互に自由に、自国のアーキテクトと全く同じ対応をすることになるというのである。国内の情況についても報告され、現在5年制大学の数が65、そのうち認定に合格した大学が20、その大学の卒業生は実務経験3年以上で700単位、1単位は8時間、認定を通っていない大学の卒業生の場合には更に長い実務経験を課すというのである。このすじの通った明解さを私たち日本の社会も身につけることができない限り日本は独り国際的な孤児となってしまうのではないか。真剣にこの問題にとりくむのでなければ、日本は大きくおくれをとることになるのである。
建築家資格とUIAアコード
建築士資格とUIAアコードに見られる建築家像との間には極めて大きなギャップがある。このギャップをどう捉え、どう認識するのか、そしてどのような行動をとろうとするのか、それが今日私たちの眼前にある大きな課題なのである。これを外圧とし、外圧に対して、日本は日本のすぐれた制度や仕組みを守っていかなければならないと主張し、それが国益であるという意見や、建築は文化であり、建築家の資格制度も教育もそれぞれの国の文化に深く根ざした固有のものであって、世界中が同じルールになる必要はなく又なるべきでもない、という考えも少なくない。しかし今やこれはWTOマターであって当然何もしないで世界に通用するわけにはいかない、だから適当に最小限の手直しをして対応すればいい、という考えは決して少なくはないのである。果たしてそのような考えでよいのか、第一、これを外圧だと考えることが適当なのか、私はそうは考えていないのである。
UIAアコードに示されている建築家の像と建築士像とのギャップは、世界の諸国における、建築家の知識能力と倫理に対する社会の要求が、日本におけるそれよりはるかに厳しいものであることを示している。言いかえれば、日本においては、世界のレベルよりずっと低いレベルに於いてしか、建築に関して、国民の利益、国民の安全と健康、そして社会公共の福祉は保証されていないのである。果たしてそれでよいのか、当然改められるべきではないのか、それが第一の点である。現実に欠陥住宅が大変な件数にのぼり、年間100万件といわれる確認に対して、検査済証が発行されるのはその1/3にも満たないといわれるように、建築士がその本来果たすべき職務を全うせず、その権威を失墜させている情況は、既に広範に拡がっているのである。
第二はアーキテクトとエンジニアの資格の明確化である。建築士法の第一条の定めにも拘わらず、建築士のうち設計監理に従事している人間はその約1/3であるという。残りの2/3は、或いは行政に或いは建設工事部門に、その他教職やサブコン、メーカー、商社など、凡そ建築に関係するあらゆる分野に広範に拡がっているのである。このようにして、建築に関する知識と能力とが、広く関連社会の全般にわたって共有されていることが、一面で日本の建築物の質の高さを支えているのだと考えられる。2/3もの建築士が設計監理以外の分野で働いているという事実は、士法の目的とは別に、建築についての基礎的な知識と能力を持つ資格者が、社会的に強く要請されていることを示すものであろう。このような資格者が社会の要請であるとすれば、そのようにはっきりと位置づけた上で、士法本来の目的である建築家と技術者の資格について、改めてきちんとつくり直さなくてはならない、これが第二の点である。
その時、改められるべき資格のベースになるものはUIAアコードをおいてない。UIAアコードの推奨するレベルを、日本の社会の中で、日本のものとして創り出さなくてはならないのであって、あいまいのままにしておくわけにはいかないのである。日本がこれからも国際社会の中で生きていこうとするのであれば、どこかで日本独自のあいまいさと決別し、アカウンタブルな人間関係、社会関係へと移行しなくてはならないであろう。UIAアコードの示す教育もそのアクレディテーションも、或いは実務訓練や試験や継続教育も、すべてその過程がアカウンタブルでなければ、世界の人々に理解させ認めさせることは不可能なのである。いや最早や日本でも、社会のあらゆる場面で、アカウンタビリティーが強く求められているのである。私が外圧とは考えない、と言ったのは、今国際問題は、実はすぐれて国内の問題であるからに他ならない。日本の国民に対して保証されるべきレベルは世界のレベルより低いものであってはならないのであり、そのレベルが国民の目にも諸外国から見ても明らかにされるシステムの構築こそ、まさしく国内の課題なのである。そのような資格制度を国の法制度の中に、どのような形で何時確立することができるのか、それは私たち建築界全体のとりくみ如何にかかっている。そしてそれに連なる重要な第一歩が、当面の緊急課題である所の国際化対応の具体化なのであり、前記関係6団体による協議会における真剣な討議と率直な意見の交換とが何よりも急務なのである。JIAが今日迄研究し蓄積してきたものは、すべてその素材として俎上に乗せられることとなろう。
教育とアクレディテーション
UIAアコードに於いて教育とアクレディテーションに関する推奨基準が示され、又エイペックエンジニアとの関係等もあって昨今工学教育とそのアクレディテーションの問題が急速に浮上して来ている。JIAは建築家資格の検討の中で、資格の根幹をなすものとして教育の重要性に強い関心を示しながら、それが文部省の管轄であり、又若干機の熟さない感もあって、教育の問題はやや先のばしして来たのだが、同時に当然、早晩学会との緊密な協力のもとでこれにとりくむべきものと考えて来たのである。それが、ようやく建築界全体の課題となって来たのである。
日本の建築教育はホーリスティックな教育と言われる。その総合的な教育によって培われた共通の基盤の上に、アーキテクトもエンジニアも、又工事施工の技術者も、その他建築関連の各分野で働くすべての者同士の間に、相互の理解が生まれ、共同して建築をつくりあげる土壌となって、日本の建築を支えて来たものと思われる。その情況は、建築士資格が、建築にかかわる者の基礎的な資格であるかのように機能してきていることと、パラレルな情況と言えよう。建築士が本来的には包括的な資格者でありながら、すべての分野の全般にわたって十分な知識能力を身につけているとは考えられないのと同様に、ホーリスティックな教育は、ホーリスティックであるとは言いながら、そのままではすべての専門領域について十分なレベルの教育をすることは不可能なのである。その基礎の上に各専門領域の教育を深めるのでなければ、とても今日の社会の要請にこたえることは出来ないのであり、諸外国の教育レベルと肩を並べることも不可能であろう。そのための教育とそのアクレディテーションのシステムをどう構築していくか、これからの重要な課題である。
これは、当然職能側と教職側との密接な協力なしにとりくむことはできない。因みに中国の建築教育に対するアクレディテーションのシステムは、建築部(建設省)と教育部(文部省)の合同委員会で、委員は建築家6名、教授6名、その他数名で構成されているという。日本に於いては建築士試験の受験資格校の認定は建設省が行っているのであり、第三者機関としてのアクレディテーションシステム構築の経験は未だない。そのような情況の中で、99年日本技術者教育認定機構が誕生し、その建築分野について、日本建築学会が担当することとなって、学会の岡田会長から建築関係団体に対して協力の要請があり、ここに職能側と教職側の協力の端緒がひらかれることとなった。先にのべた6団体による協議会での重要な検討課題の一つとして、真剣にとりくむこととなろう。
ホーリスティックな教育システムの中で、建築家を志す学生はその一部にすぎない。その学生達に対してどのようなカリキュラムを用意すべきか、従来欠けていた実務や職能、更には倫理についての教育はどうあるべきか、デザインの教育はどのようにして充実させるのか、多くの問題の解決を図らなければならない。カリキュラムの自由化という大きな流れの中で、一方で必要にして十分なレベルを保持すると同時に、自由な選択を可能にするような、自由で可能性にみちたシステムが強く望まれるのであり、教職側のみでなく、広範な建築家の積極的な発言や意見が期待されるのである。
終わりに
現在、教育の問題が急速に浮上し、その一方でエイペックエンジニアへの対応が具体化の段階を迎え、又継続研修については既に団体間での調整が進みはじめているといった中で、関係6団体による(仮称)建築教育資格検討協議会の発足が図られるなど、ようやく建築家資格制度への本格的な対応への気運が熟して来ているように思われる。その時、今何故建築家資格なのか、改めてプロフェッションの原点に立ち帰って思いを致す必要があるだろう。
建築家資格制度は、教育から始まり実務訓練、試験、継続研修へと連なる四つの段階が一つのシステムとして有機的な連携のもとに構築される。そのすべての段階が、一貫して国民の利益、社会の利益を守り、それを確保するという基本の精神につらぬかれていなくてはならないのである。教育も資格も、建築家プロフェッションを支える極めて重要なテーマであり、建築家という職業が真にプロフェッションと呼ばれるのにふさわしいものとなるためには、国民の利益を守り、その生命、安全、健康を守り、更に社会公共の利益を生み出すのに十分な、最低限の知識、能力と倫理とを、身につけていなくてはならないのである。教育も資格もその為に必要不可欠なのであり、それに値するシステムの構築を目指さなくてはならない。それを必要とするのは国民であり社会である。市民が何を望み、社会が何を期待しているか、それが基本であって、建築界のみならず、広く市民や学識経験者を加えた場で議論が進むことを期待してやまない。 |