2016年度JIA新人賞講評

2016年度 JIA新人賞  現地審査作品
作品名 設計者 事務所名
愛知産業大学 言語・情報共育センター 栗原 健太郎
岩月 美穂
studio velocity 一級建築士事務所
まちの家 竹内 申一
裏庭の家 松岡 聡
田村 裕希
一建築設計事務所 松岡聡田村裕希
アーツ前橋 水谷 俊博
水谷 玲子
水谷俊博建築設計事務所
中山 眞琴



講評:飯田善彦

 

 新人賞の審査をしながら当然なことに新人賞という賞が他の賞と何が違うのか、新人賞たる所以とは何なのか、自問しながらいろいろ考えさせられた。応募者は建築家であるから、それなりの実践的経験を積んだ結果としての建築が示されている。この建築を通してそれを生み出した建築家の資質を判断することが求められていることになるが、当然そこに示される建築そのものが個性である。この個性は今後どのように展開され、建築文化の中で働いていくのか?、その先を切り開く力のようなものを感じられるか?が多分キモなのだろう、それが見極められるかどうか?こちらが試されているように思った。
 一次審査で9点に絞り、プレゼンテーションを経てさらに5点を選出し現地審査に臨んだ。
 愛知産業大学に入るといきなり緑の斜面と一緒に「言語・情報共育センター」は現れる。それは、建築というより都市的な装置のように見える。元々二段に造成されていた地面を緩やかなスロープに戻し、その上に網目状に設えた屋根の下に学生の居場所が分節されて点在している。よくよく見ていくと斜面に直行する方の床は平らであるが故に相当細やかな調整がなされていることがわかる。またファンクションを成立させるために用意される設備系のインフラも注意深く隠され、インテリアを仕切るサッシュも開閉する箇所や方法も含め大胆でありながら納得のいくディテールで納められている。そのような配慮によってランドスケープの解放感が損なわれることなく明るく透明な質を獲得しているように思えた。建築と外構のバランスが絶妙に着地している感覚。おそらく建築がもう少し強く、あるいは外構が少しでもやりすぎていたらこの自然さは崩れているに違いない。「抑制」と「挑戦」が程よくミックスされている止まり方が良かった。
 金沢の「まちの家」は住居として清々しいよく考えられた気持ちの良い建築である。ただ、あとあと気になるのは、その建築が現れている方向である。重伝建地区に指定された歴史的街区の一画で非常に目立つ場所にあって、住宅そのもののプログラム以前に、あるいはそこにかぶせて、重伝建であることの使命や面白さを圧力としてもっと自覚的に引き受けられなかったのだろうか、との思いが残る。これだけの清々しさを実現できる力があれば、その圧力を真っ向から受け止め挑戦的な意思、思考で臨めばもっと反発力のこもった異なる次元の建築が現れたのではないか、と期待してしまうところがあった。
 札幌の「籤」はご自身の設計事務所が入る自社ビルである。円山の緑を背景に、コルクで覆われた立体が浮かぶ様は、意外におとなしく感じたが、この印象は中に入ると一変する。極限まで細いスチールの角棒を組み合わせた構造体がつくる空間は広々と心地よい。一種のトラス層を構成する本棚外壁にくるまれたバランスの良い空間は、プロポーション、素材、ディテール、全てに程よく抑制しつつ相当挑戦的な個性が発揮されていて、思わず自分の仕事に照合した身近な興味にとらわれて審査を忘れるほどであった。おそらくこれまでの経験と想像力が十分に反映された申し分のない建築であると納得したが、一方で、個性に充足することで満足する感覚、例えば、社会に向かう言語というより自分の世界を際立たせる言語、そこに迎えられる人々はことごとく魅了されるけど積極的に外部に発信されることがない洞窟の美学、徹底したダンディズムに好んで止まる印象も受けた。
 「アーツ前橋」は、対照的に、美術館という正統を百貨店のリノベーションといういわば邪道の中でどう作り上げるか、に挑戦し成果を挙げた建築である。エントランス、ショップ、カフェを街との接点にする構成は、市民ミュージアムとしての要請に真摯に応えている。その真っ当な建築家としての仕事は素晴らしい。ストック社会でのリノベーションのあり方を十分に実現している。しかしながらそのように立派な仕事であることを評価する一方、面白い、と感じるところは元々の百貨店と美術館の止むを得ず折り合いをつけた痕跡、異音のようなところなのだ。皮肉でもなんでもなく、既存空間、構造のどうしようもなさを反力として新しい空間にどう反射させるか、思っても見なかったような遭遇そのものをもっと楽しんでも良かったのではないか、と無い物ねだりのように思ってしまうところが残る。
 最後に見学した「裏庭の家」はとても小さな家であった。細長い小空間の長手いっぱいに異様に引き伸ばされた扇状の階段がくっついている。これがこの建築のすべてである。この潔さは、というか発見と決断は、しかし素晴らしくのびのびした空間を実現していた。最初から目論んだ、というより相当の試行錯誤の中で突然降りてくるアイデアだろうと思うけど、これを捕まえて思考の核に据え、一挙に建築に持ち込んでしまう胆力のような力技が見事である。建築家にとって必須の資質を感じた。
 全てを見終わり審査員3人で検討した結果は発表された通りである。最後の議論は短くも充実していて全員一致で決定したことをご報告したい。

 


講評:竹山 聖

 

 見た順に記してみたい。
 岡崎から少し足を延ばした小高い丘の上に「愛知産業大学言語・情報共育センター」は立地している。擁壁で段差のついた土地をあえて切り崩し斜面とし、幾何学的形態に切り抜かれた薄い屋根が浮遊しながら緑の斜面に影を落とし、ガラス引き戸に囲まれた一つ一つの袋小路が場所を生み出す。地形に建築を重ね合わせ大学の顔とした手法はさりげなく鮮やかだ。とりわけ周囲の建物群から見下ろすと、白い幾何学的迷路が機能を脱した庭に見える。設計者は他の作品においても地形を改変し新鮮な空間を生み出しており、いわば確信犯的な「つちいじり」建築であることに、思想的な一貫性を感じる。将来が楽しみである。
 金沢はよいスケール感と文化的な香りが隅々まで漂う。「まちのいえ」は犀川に沿った高台側の寺の建ち並ぶ道に面する「町家」である。上階のキッチンダイニングフロアが伸びやかで、まっすぐな気概の感じられる住宅だ。丁寧につくり込まれていてとても好感を持った。決して「町家」が並ぶのではないこのまちなみに、「まちのいえ」のスケールとファサードがどのような影響を与えて行くのか、その未来に注目してみたい。
 札幌は空気のきりりと張りつめた透明感のある都市で、その西のはずれの動物園の向かい側に「籤」は立地している。不思議な素材感の外観がまず目を引く。床にも外壁にもコルクという軽い材料を用いて軽量化を究めた上で、細い無垢のスティールで床と屋根の鉛直加重に耐え、外壁フレームでねじれを押さえ水平力にも耐えている。素材の選択や納まりに作家独特の「好み」が投影され、隅々までその感性が行き渡る、いわば手だれの作品であって大人の余裕と遊び心に溢れている。構造設計者の割り切りと思い切りも大いにその作品の切れ味を倍加していて、センスを研ぎすませばここまで来るかと感銘しきり、札幌の空気と見事に共振する建築である。
 伝統的な気配を感じさせぬさばさばした街並みの大通りから一本裏手の商業ビルを美術館へとコンヴァージョンした意欲的な建築が「アーツ前橋」である。かつての建物の形態や、床の切れ込み、柱の下地模様などを通奏低音に響かせつつ決して声高にならぬよう静かに、しかしウィットに満ちたメロディーを重ねてサウンドを奏でる。ディテールの隅々にも心配りが行き届いている。ただ周到なところが逆にパワーのあるアートの背景として仇となるような気もした。力量の片鱗を見せてくれたので大いにその未来を期待したい。
 常陸多賀は、あたかも廃屋となったような住まいも散見される、時の深みと不毛がないまぜとなったような土地柄だ。そんな裏通りから大きな通りに出れば、広い駐車場に面して「裏庭の家」が屹立して出現する。ほぼ正方形のプロポーションの壁に絵のように配された大きな窓が適度な非日常性をもち、側面から見た尋常ならざる建物の薄さ、母屋に向けておおらかに膨らむ曲面壁、とこの小さな建物の内部に込められた物語に心が掻き立てられる。中に入れば外から感じた狭さを裏切るように空間が縦に横に広がり、これが理不尽なほど平面的に大きな面積を占める階段によって結ばれているからだということがわかる。この階段は発明である。しかも1階と2階が同じ(蹴上230×14)階高にもかかわらず、構造によって天井高がやや変わるリズムの変化にも助けられ、空間がダイナミックに動いてゆく。最上階(3階とは言わない、あえて)も天井高を1400にし階に算入せずという姑息な手段をあっけらかんと見せつける「天井裏」とその真ん中に穿たれた天窓が象徴的、そしてこれが実際に開閉可能なので、天窓下に立つとこの「天井裏」が横から見通せる。笑える。抜き差しならぬ諸条件を受け止めながらこれを逆手に取ってのぎりぎりのユーモアあふれる解決の数々。建築は素材とスケールとプロポーションがすべてだ。このことをかくも小さな建物で見事にやってのけていることに感心した。ただ設計者に尋ねてもときにとんちんかんな答えが返ってくるから、はたして計算尽くなのか天然なのかわからない天性のスケール感が、この設計者の身上なのかもしれない。

 


講評:ヨコミゾマコト

 

 現地審査を行なった5作品について、エントリーナンバー順に述べさせて頂く。
 「愛知産業大学言語・情報共育センター」は、大学キャンパスの中央に横たわっていた擁壁を崩し、緩やかな斜面地を造った上で建築を計画したという。その説明には強い説得力があった。薄く細く軽やかさを求める意匠と構造とのバランスや、斜面と取合う引戸のディテールなどにも設計の力を感じた。一方、どこまでも広がる均質さと透明さに固執することへの明確な説明が得られなかったことに、少しもどかしさを感じた。今後、学生たちの居場所、あるいは一般教室では行なうことのできない教育・研究プログラム実践の場として使い込まれ、予期せぬモノが持ち込まれてもなお、この建築の魅力が誘起され続けることを期待する。
 「まちの家」は、金沢の伝建地区内に建つ設計者の自宅兼声楽家のための練習スタジオである。スタジオと前面道路との間に設けられた中間領域の透明感、上階ワンルームでの木造構造部材の処理など、ゆとりある設計の力を見せてもらった。一方、伝建地区ゆえの継承すべきコードと設計者のもつ創造性との格闘、そして調停にいたるドキュメンタリーを期待していた自分にとっては、やや物足りなさを拭えなかった。東京から金沢に移住した設計者は、今後、否が応でも地域の歴史的文脈の中に自身の作品を位置づけて行かざるを得ないだろう。今回の作品を機に、次にどのような作品が紡ぎ出されるか楽しみである。
 「裏庭の家」は、審査書類の印象より実物の方が圧倒的に面白かった。特殊な敷地選定であるが、それも設計者による提案であったと聞く。前述の「愛知産業大学言語・情報共育センター」と同様、敷地を創出するところから作品は始まっている好例と言えよう。その小さな建築は、敷地の周囲に散見されるロードサイド商業施設の看板の類と同じスケール感を持つ。それ故に、れっきとした住宅でありがら、建築にカテゴライズされることに抵抗しているように感じられた。いわゆる地方都市の風景に対する強い異化効果は、住宅内部の作り込みにも増して印象的だった。
 「アーツ前橋」は、地方都市の中心市街地における役割を終えた大型商業施設のコンバージョンである。丁寧に造られたアルミ有孔パネルの曲面が訪ねる者を出迎えてくれる。確実なディテール、破綻のない動線計画、多様な展示空間、コンバージョンでここまでのものを獲得した設計者の力は賞賛に値しよう。一方で、前述の「まちの家」と似た物足りなさを感じた。それは、格闘の痕跡のようなものである。コンバージョンでしか得ることのできない創造性の発芽が、摘み取られてしまっているように思えた。状況を逆手に取って、雑味混じりの予測不可能性に満ちた空間にすることもできたはずである。しかしながら、公共施設の統合整理の流れのなかで、立ち行かなくなった民間施設を行政が引き取り、より質の高い市民サービスをめざして再生する事業の先行事例として記憶される作品であることは確かである。
 「籤」は、興味深い作品であった。特にその構造と素材について。厚手のコルクパネルをまるでALC版のように床及び外装に用いている。床スラブのデッドロードを極限まで削ぎ落せば、鉛直要素や耐震要素はここまでスレンダーにできるという構造設計者の解説は、目から鱗であった。また、構造・外装・造作からディスプレイされた品々にいたるまで統合された空間は見応えがあった。一方で、自分の勝手な期待に反し、この攻めの構造システムの汎用性を高め、今後に展開しようとする設計者の意志は希薄であり、設計者個人の趣味的世界に収まりかけているように見受けられたことがやや残念に思えた。
 この新人賞は、作品にではなく設計者に与えられる賞である。その両者を切り離して考えることはどだい無理な話である。が、設計のプロセスや思考の展開、これまでに培ってきたであろうものと今回の応募作品とのつながり、そしてそれらの今後の拡がりに注目し審査することで、賞の主旨に応えようと考えた。現地審査を行なった5作品は、いずれも見応えのあるものばかりであり、逆にそれらから学ばせて頂いたことも少なからずあった。審査にご協力頂いた施主の方々を始めとする関係の皆様に改めて感謝を申し上げたい。ありがとうございました。