「みち」から広がる人が住むための「場」
今から5年前のとても蒸し暑い夏の日、地名と簡単な地図を手掛かりにして、既存の交通機関を利用し造られた多種の坂道を歩き迷いながら今回の場所を訪れた。その時の身体的快適疲労時に体感できた、爽やかな浜風と神戸港を見下ろすことのできるパノラマビューを大切にしようと思った。
新しい「みち」をつくりたかった。
ここでしかつくれない「みち」を。
この建物は、神戸坊主山の裾野に広がる閑静な住宅地の中腹に位置している。
敷地の地表面から法に抵触しない最も高い床のレベルまで無限に様々な経路を設定することができるが、ここでのメソッドとしては外部と内部との相互関係の整合性と、神戸港を展望するためのシークエンスの展開を各レベルごとに変化させることであった。地表面から、屋上水平テラスまで垂直距離7.3m・全長73mの「みち」に、住居としての必要な要素を併設する。この「みち」は単純計算では1/10の緩い勾配になる訳だが、水平な面と、勾配の違う緩急取り混ぜた五種類の「斜めテラス」を要している。全施工床面積の1/3を「みち」は占め、「斜めテラス」は「みち」の全面積70%となる。
「みち」をつくることは、「あわい」の設定と言い換えても良い。個人の境界を解きほぐし、他者との関係性における接触や交信しあう感覚を「みち」によって獲得できるとするならば、ある種強引に計画に落とし込む価値があるだろう。私的なものを囲い込み、公と明確に分離しようとした現象を、閉じる開くといった「みち」に対して受動的な方法ではなく、むしろ能動的に私としていかに「みち」との関係性を持つのかを考えさせるきっかけを与える事が大切になる。特に住居のように小さなヴォリュームを扱うとなればなおのこと、公道からの「みち」の構成が重要なポイントとなる。ハコ型で規定されてしまう住居形態と、時代の生活様式に伴ったかに思われがちな旧態依然とした形式。ここからの開放があり得るのか。それとも開放できるものではないのか。場と場を結ぶ「みち」ではなく、形成した「みち」から始まる場、「みち」=「あわい」から広がる。人の行為を誘発する「場」の設定。
「みち」をつくろうとも、結果的には住居は住居でしかない。しかしここで行った「場」の設定、言葉の読み換え、若しくはアフォーダンス的思考の進め方を糸口に、どこまでつくれば良いか、どこまでつくるべきなのか。この単純であたりまえの問かけにこそ、我々が担うべき使命があると考えている。 |