審査員講評


中川 武
 
衝突・融解・未発の力としての新しい建築の形式

現地審査の対象となった7件の候補作品は、必ずしもジャンル別に選ばれたわけではないが、現代日本の建築家が各々のジャンルにおいて、担うべき深刻かつ重要な課題とそれに向けての新しい解決策の提示が各々にあった。
現地審査順に個人評価を述べる。

(1)ふじようちえん:原っぱのような学校である。現代日本の幼児教育が抱えている多くの問題を、一気に突破してしまうおおらかさにあふれている。通常あまりに健康すぎるものを見せられると、つい人間には暗さも・・・という気にもなるが、この建築はそういうものなど吹き飛ばしてしまうほどよく考えられていて、見かけほど単純なものではない。しかし、手塚氏の建築には、プログラムと空間の間にクッションがないことが私にはどうしても気になった。後日の審査会で、手塚氏は、人の動きや使い方が建築の断面をつくる、というのが私共のポリシーだというようなことをおっしゃった。手塚氏の作品の類稀なる力強い明快さは、そこから生まれることは了解される。しかし、たとえば人間はパンのみで生きるにあらず、パンの耳のみで生きる(注1)、ということが象徴する状況と向き合っていくためにも、クッション(私はそれを建築の形式と考えている)が、もたらす知恵と戦略が現代の子供たちだからこそ必要だと思う。
(注1)派遣切りなどの状況を告発していると考えられている幻の投稿詩人(?)

(2)丸の内仲通り:丸の内界隈は、東京のみならず、日本の玄関、顔、主要都市軸と呼ぶべき場所であり、その中心の一つが丸の内仲通りで、拡幅、デザイン調整、植栽や舗石の選択など、実に肌理細かく、行き届いたデザインが施されていて、場所のポテンシャルの高さにふさわしい表現に成功していると思う。従来日本の街路空間のデザインは、いつも受動的で結果的な性格がぬぐえなかった。それに対して丸の内仲通りは控え目とはいえ意志を持ったデザインだと思う。とはいえ、通りでは、背景としての両側の建築以上に、行き来する人々やそこで行われるイベントが主人公であって、通りのデザインは、どんなに上出来であっても背景のまた背景になってしまって目立たないという宿命がある。いっそのこと、明治生命保険相互会社本社本館と三菱一号館と新丸ビルを結び付ける、もう一つ別の背景的道のデザインが行われたとき、三菱地所設計しかできない、三菱ならではの作品になるのかもしれない。

(3)成城タウンハウス:都市集合住宅における新しい集合、それは、街路-アプローチ-室内-中庭-隣地-隣棟-街路間相互の連結の方法によってより豊かな空間の可能性を求めているといえそうだが、それを野心的に探究している妹島氏の成城タウンハウスは、西沢立衛氏が森本邸で実現したものを、さらに一歩先へ、というか、実験的でコンセプシャルなものから不確定条件をも許容する現実への着地性を強めた可能性が見られるのではないか、と期待していた。結論からいえば微妙なところで失敗しているようだ。もし、旗竿敷地のように細いアプローチで引き籠ったものではなく、街路に面した敷地であったら、明るいけれど異様な整序感という違和感が明るくほどほどの秩序をなす周辺に、ジワジワと働いたかもしれない。審査会では分譲にしたのが問題という発言があったが、私は引き籠った場所に咲く、秘密の明るい花のように感じられてしまうチグハグさを最後まで払拭することができなかった。

(4)Dancing trees, Singing birds:屋上や壁面の緑化など、都市緑化はできるところからどんどん進められていくだろう。それ自体悪いことではないが、現在の都市緑化には、飼い慣らされたグリーンという印象が付き纏ってしまうのは、緑との根源的付き合いがどんどん希薄化しているからに違いない。その意味で、この作品は都市の緑という問題に対する、ある種突き詰めた解答になっていると思う。特に裏側の崖下から見上げたこの集合住宅の光景は圧倒的だ。跳ね回る木々の枝、幹、根に対して、建物は柔順に寄り添うでもなく、無視するでもなく、あえていえばキッパリと呼応する関係が築かれているように思った。ところが内部からの印象はやや異なった。たしかに木々と空間の関係が、内部生活にもところどころ巧みに取り入れられてはいる。けれども、内部空間では、それらの木々が特異な光景ではあるが、舞台背景のように後景として退いていて、崖下から見たときの息詰まるような緊迫感がないのである。この建物の企画にマンスリーの賃貸ホームパーティ会場のような使い方も想定されていることとその印象が関係するかもしれないが、私は別のことが気になった。それは場所にまつわる問題である。目黒川沿いの崖地に残されたささやかな原始の緑地は、江戸期以来の神社仏閣の地であり、都市周辺の、庶民の身近な物見遊山、行楽の場所でもあった。それが今では、すっかり私的に囲われていて、第三者が見るためには覗き見せざるをえない。これをいきなり公共空地に戻すべきだと主張しているわけではない。この場所が持つ歴史文脈的価値を、わずか数軒とはいえ、集合住宅として共有するからには、分断された自然の背景として個々に内部空間に取り入れるだけではない集合の方法もあるのではないか。もしそれが可能であれば、つまり私的集合体とはいえ、共通の価値に対する共通の方法を基にした集合の実現であって、必ずや周辺にも影響がにじみ出るはずである。そしてそのことが逆に私的な集合性にも影響を及ぼすと思われる。このような曖昧な私有・地域・公共の関係こそ日本の都市の奥性=聖性=緑地性の真髄であって、それが現代だからこそなおのこと都市のバイタルな根源性になり得るのだと思う。

(5)アパートメントⅠ:これが現代的な都市居住の最低線であるとは勿論思わないが、条件の選び方によっては、驚くべき苛酷性を帯びてしまう条件のもとにこの作品も成り立っている。ひどい条件であっても、アクロバティックにそれなりの解答を出してしまう都市隙間小住宅派は犯罪に加担しているようなものだ、という批判がつい先頃あった。しかし私にはそのような批判はスターリン主義的だと思う。問題は、その解決策の中に、“家貧しくして孝子出ず”のような、創造的な芽があるか否かだと思う。アパートメントⅠは、佇まいとしてはそれが感じられた。私は住人がどのように住みこなしているのか見たかった。結論からいえば、“狭さは貧しさ”と単純にはいえない、狭さゆえの凛とした住み方ということがあるのかもしれないと考えさせられた。この作品の中に入る前までは、ブラインドを降ろせば自分は見られないが、いつでも、どこからでも他人を見ることができる、というのは暴力ではないか、と考えていたが、そうではなく、傷つけ合い、迷惑をかけ合って生きているのだから、お互いに我慢して、というのではない、緊張感の中の安息のような、都市居住の様式のようなものがあるのではないか。かつて江戸の町屋は、農村の民家形式が密集してつくられてきたことが、現在の東京の都市空間の根底にあるとすれば、都市居住様式の確立の鍵は、意外と隙間小住宅派が握っているのかもしれない。彼らは極端に苛酷な、個別の特殊な条件に対応を迫られているのではなく、その苛酷さの中にこそビビットに現れてくる都市居住の普遍的な課題と格闘しているようにも思う。その課題に果敢に挑む建築形式がまだ発見されていないだけなのである。

(6)中村キース・ヘリング美術館:木立の中に祝祭のような造形が見え隠れする。印象的な幾何学形態や立体が散りばめられ、各々濃密であったり、あっさりと周辺の風景に溶け込んだりする場所が、あたかも造形の抽象度の差異を意識するかのように散逸的に構成されている。大地の起伏に合わせて、めくりあがるように駆け抜けていく黒く塗られた杉の板壁に沿って遠くを眺めたり、暗闇に浮かぶ天上から落下する光を浴びて、あるいは朝靄の中の広い谷合いの空間に現出するキース作品との応答、そして、太古の山容や地熱の記憶に直面する強い造形と透明な抽象の対比など、根源的なものに届く力とどこまでも受容するやさしさと、見たこともない新しさの中に懐かしさを感じるそうした建築に出会えたことは幸運であった。近代建築以降、経済、社会、生活、文化的水準というもの以外にも、ものに精神を背負わせたいという止むにやまれぬ妄想を抱くに至ってしまったという共同性からも、建築家は逃れることはできていない。一回性の個別の解決を通して、建築形式という、複雑、スピード、危うさを特徴とする、建築家にとっての文体の創造によって、建築家は社会的存在としての建築家であり続けようとしているのである。この作品における、抽象度の違いによる衝突性の強さ、素材やプロポーションの違いなど、あらゆるものの存在をありのままの姿で許容するかのような融解性、そして直裁さの響に溢れる未発の力そしてそれらの統合のあり方を持って、現代建築における形式の創造ということができる。

(7)沖縄県立博物館・美術館:グルリに差し掛けられた白い斜壁が、格別風土性の強い沖縄の地で実際はどういう風に感じられるのか楽しみであった。強い日差しの中で防護された感じは、やさしく悪いものではなかった。しかし、ロビーの大空間の伸びやかさが屋上やテラスを通じて、内外に融通無げに広がっていく工夫がもう少し欲しかったところである

以上により、中村キース・ヘリング美術館が傑出していると判断したことについて迷いがなかった。しかし、他の諸作品は、各々特定の分野とテーマについて優れた特色を持っており、比較は難しいがインパクトの強さで、ふじようちえんとDancing trees, Singing birdsを選んだ。
   
馬場璋造
 
多様化のなかで

多様化の効果と限界

 建築デザインの多様化が言われるようになってから既に久しい。振り返ってみれば、近代建築の時代は、ほとんど全員が機能主義という同じ山の山頂目指して登っていた。ただ、というのは表向きの見方で、当時でも近代建築と違った道を歩んでいた建築家がいたことが、あとになって知れるようになってきた。ミケル・デ・クラークやハンス・シャロウンなどがそうである。ヨーロッパではいつまでも近代建築は少数派だったが、ジャーナリズムはそれだけ近代建築に先鋭的であった。アメリカと日本、とくに日本は、第二次大戦で軍国主義から民主主義に反転したように、近代建築にあらずば建築にあらず、といった勢いだった。歴史とジャーナリズムの光が当たらなければ、なきに等しいのである。
 それに加えて建築教育、とくにデザインが近代建築の思想一辺倒だったことの影響が大きかった。当時建築教育を受けた私たちにとって、ほかの選択肢はなかったのである。新建築の編集をはじめるようになってから、戦前建築教育を受けた建築家の多くは一変した事態に対応できず、ひっそりとしているのを知ることができた。
 ポストモダニズムの波が過ぎるころから、近代建築の呪縛が解けていった。つまり、皆で目標とするひとつの山に登るのではなく、それぞれが別の山に向かって登りはじめたのである。それぞれが違った価値基準、好みを持つのであるから、ひとりの言説が趨勢をリードするなどということがなくなってしまったのである。たとえ注目される建築が完成し、言説が発表されたとしても、ほかの建築家はそれに従うことはなくなった。その考え方や建築を評価しないのではない。評価はするが、それはそれ、と冷静に対応するのである。つまり反応はするが、あまり影響は受けないのである。たとえばアートから起こった「フラット」という概念が建築でも流行ったことはあるが、それで建築が一斉にフラットになったわけではない。ほとんどはそうした考えも面白いな、くらいの受け取り方である。
 思想なき時代といえるかもしれない。また形式のない時代ともいえる。しかしそれは決して悪いことではない。覚めた目を持つようになったのである。それが多様化なのである。それで困るのは、まだその時期ではないのに、時代を総括して名付けようと試みる人たちである。また学生にデザインを教える先生方であろう。確信を持って教えることのできる規範がない一方、学生たちは十分でない知識をもとに新しさを探し求める。当然、ジャーナルに載った建築や言説からそれを選ぶ。それはつねに移ろっている。そこで学生から浮かび上がる反応を時流と読み取ってしまうと、大きな過ちを犯すことになってしまう。
 巨匠の時代からチャンピオンの時代に移ったのである。チャンピオンは巨匠より多くのファンを集めるが、人気がなくなると、さっと波が引いていく。現実の状況を観察すれば、それは一目瞭然である。多様化の相互作用は表層的には効果が大きく見えるが、実際にはかなり限界があることを知らなければならない。多様化の時代のなかでは、自分の足元をしっかりと踏み固め、さまざま学びながらも、各自の道を歩むしかない。現代は主流を読んで、それに付いて行くことができない時代なのだ。
 今回の現地審査の対象となった7作品は、いずれも多様化をそのままに現すものであった。ひとつとして同じ方向を向く作品はなかった。審査をする側としては大変に困るのではあるが、こうした時代に困っているのはお互い様である。前向きに付き合うしかない。さまざまに異なった評価軸であるが、建築としての質の高さは——それも現在では評価要素の一部でしかないが——測ることができる。また賞を機会に、こうした建築に目を向けて欲しい、という願いをそこに込めることができる。

大賞:中村キース・ヘリング美術館
建築のありたい姿を具現している。八ヶ岳の裾野という恵まれた自然環境を十分に読み込みながら、それを超越して屹立している。周囲の環境にこびることがない。それがかえって、環境の価値を高めている。幾何学形態と白、黒、赤の3色による造形は、周囲の木々と対峙しながらもお互いを高めている。デザインというよりもアートとしての鑑賞に応え得る建築である。機能優先の建築では、建築デザインの説明によく弁解が入り込むが、この建築にはそれがない。建築のありたい姿を具現している、というのはそうした意味である。こうした建築が現在でも可能であることを記憶に留めておきたい。
 内部の空間構成もみごとである。短命であったキース・ヘリングの生涯を読み解き、その空間的展開を図っている。暗く細長いアプローチが期待感を増す。「闇」、「ジャイアント・フレーム」、「希望」と続く3つの展示室は、アプローチを含めて意外性の連続である。作家が特定された美術館とはいえ、建築と絵画展示が、それぞれ自己主張を貫いている。最近の建築には珍しいほどの完璧さゆえ、特殊であるという考えもあるが、そうではない。三度言うが、建築のありたい姿を具現しているのである。

建築家協会賞
 今年は3作品が選ばれた。まず「Dancing trees、Singing bards」は、目黒の西側傾斜の敷地に建つ賃貸集合住宅である。既存の樹木の根や枝の張り方まで調べて、それと共存するファサードをつくっている。敷地の下から見上げると、よくもこうできた、と思うほど樹木との関係が計算されている。内部空間も浴室、茶室、読書、テラスなど住戸の目的を特化し、それぞれのデザイン密度も高い。十二分に考え抜かれたデザインである。
 「ふじようちえん」は、一見、前者とは正反対のアプローチである。500人を収容する幼稚園をフリーハンドで描いた円のなかに収め、屋上を園児たちが走り回る。全体に間仕切壁もなく隠れる場所もない。いい加減につくられているように見えるが、実はその背後には設計者の周到な配慮と計算が潜んでいる。クライアントと建築家の前向きな姿勢が、園児たちを健康にさせ活発にさせているのは、好ましい風景である。
 「沖縄県立博物館・美術館」は、那覇市の新都心に建てられている。沖縄固有のさまざまな要素をデザインに援用しているが、単なる援用ではなく、設計者のデザイン・ボキャブラリーにまで十分に昇華している。中庭に再現された民家とも、不思議なほどマッチしている。エントランスホール天井のドームを支える大中小10本の柱=ツリーは、構造や明り採りなどの機能的要素を超えて、空間としての素晴らしさを表現している。

 賞に入らなかった他の候補作品も、それぞれ優れていた。まず「丸の内仲通り」は、デザインの目を建築からまちに向けていくという意味で、大きな意義を持っていた。こうした試みが評価されるようになれば、日本のまちは大きく変っていくであろう。
 「成城タウンハウス」は、コンペで選ばれた作品である。ボリュームをスケールダウンし、緊張感ある位置関係で全体を構成している。淡いレンガ色もかえって新鮮である。
 「アパートメントI」は、現代の東京の状況に果敢に挑んだ建築である。20㎡という面積に居住空間を構築することは不可能に近いが、これも建築家として避けては通れない。

 多様化のなかで、選ぶ側の座標軸は確定し難い。それが少しずれただけで、結果は違ってくる。だからといって、こうした時代に賞の意味がないわけではない。さまざまな評価が年を追って積み重なるうちに、その時代の姿が結果として浮かんでくる。多様化の時代を超えて21世紀の建築のあり方が見えてくるのは、まだまだこれからである。


   
松隈 洋
 
この指とまれの方法論へ

 今回から、この賞の審査に加わることになった。最終審査のすべてが公開という形式もはじめての経験である。正直、極度の緊張を強いられた。けれども、日本建築家協会に所属する建築家の方々の最新の仕事を通して、現代建築のあり方を考え、議論する貴重な機会だった。ここでは、審査を振り返りながら、その間、考えたことを書きとめておきたい。
 この賞は、2005年に、日本建築家協会の「会員の交流と創作活動の向上を目指し、その活動と業績を広く社会に広める」ことを目的に創設され、「我が国の現代建築を代表するその年の最も優れた作品」を選定するものとされている。おそらく、他の建築賞との違いは、「建築家憲章」を掲げた建築家の職能団体の与える賞という点にあるのだと思う。その冒頭は、「建築家は、自らの業務を通じて先人が築いてきた社会的・文化的な資産を継承発展させ、地球環境をまもり安全で安心できる快適な生活と文化の形成に貢献します」という言葉から始まる。そこから考えると、この賞には、会員の優れた作品の選定を通して建築家の職能と社会的な役割を広く伝えること、同時に、その設計から監理までの仕事の全体が、どの会員にとっても目標としてのイメージ・シンボルとなることが期待されていることがわかる。そこで、最終審査にあたって、次のような私なりの基準を提示した。これらは、あらかじめ考えていたというよりも、審査の途上で気づかされたことの方が多い。その意味で、応募作品に触れながら考えた結果として、あらためて共有したいと思った視点である。

提示した審査の基準
 まず、「複雑な全体」をもつ建築であること。これは、「東京的建築」とでも呼べる傾向を相対化し、より原理的な建築を求めたいと思って設定した。ここでいう「東京的建築」とは、異常な土地価格と投機的状況を背景に、短期的な建築の消費サイクルが生み出した、東京でしか成立し得ない建築のことを指している。そこには、たしかに、時代の最前線を走る先進的で実験的な明快さは見られるが、あまりにも特殊な条件とイメージの先行、不安定な発注形態などによって、将来的には陳腐化せざるを得ない危うさが感じられる。それに対して、「複雑な全体」をもつ建築とは、その空間に接する人々の気持ちや身体を切り捨てることなく、複雑な条件のまま高次の方程式を解こうとする建築のことを指している。
 次に、そのためにも、建築界の内部でしか理解不能なもの、あるいは、建築家の作風に多くを依存する個性的なものではなく、広く社会に受け入れられる問題設定と設計アプローチをもつ普遍的な方法をめざした建築であること。つまり、建築をつくる論理がそれを受けとめる人々へ届いているのか、という問いに理性的な形で最後まで答えることのできる、方法として開かれた建築を選びたいと思った。
 そして、日本建築家協会が設けている「25年賞」の受賞へとつながるような、清新な印象が色あせることのないもの、さらに、時を重ねる中で成熟していくことのできる、モノとしての安定感を備えた「時間の中の建築」であること。
 さらに、前提として、その建築が、建てられる場所の風土や自然とどう出会い、どのように根付こうとしているのか、技術的な裏づけの確かさも見定めておきたいと考えた。

大賞に推したふたつの建築
 以上のような視点から、大賞として第一に私が推したのは、「沖縄県立博物館・美術館」である。この建物は、1996年に公開コンペで選ばれたものの、財政難もあって6年間も凍結された後、規模を縮小し、当初予算の半分で再開にこぎつけ、ようやく完成したものだという。この間、審査員だった近江栄、内井昭蔵の両氏も完成を見ることなく亡くなっている。また、その歴史は、さらに遡れば、太平洋戦争の戦場と化して焼失した「沖縄郷土博物館」の再建から始まり、建設地も米軍基地の返還によって生れた新都心と呼ばれる地区である。そうした歴史的、文化史的な意味からも、沖縄にとって長く悲願されてきた建物だ。残念ながら、都市計画のコントロールが尽されておらず、訪れると、周囲には、東京の郊外と何ら変わらないショッピングセンターや興行施設などが無造作に建っていた。しかし、その中にあって、この建物には、沖縄の風土と文化と向き合い、たしかな場所を作り出そうとする意志が感じられた。特に、大きな吹抜けをもつエントランスホールに入った瞬間、その空間に心魅かれた。たたずむ人々が建物と一体となった風景を見て、沖縄にとって核となる公共空間の誕生を直観できたからである。構造家の播繁氏によれば、木漏れ日の下にいるような独特の構造は、設計者の能勢修治氏と沖縄の歴史と風土を知るために車を借りて訪ね回った経験の共有から発想されたものだという。屋上やテラスなど外部空間の利用が果たされていないなど、惜しまれる点も散見されたが、それらを超えて、この建物のもつ歴史的な意義と、ディテールに至るまでの誠実な設計アプローチに対する共感から、大賞にふさわしいと思えた。
 そして、もう一つ推した建築は、「Dancing trees, Singing birds」である。この建物は東京の一等地に計画された6住戸からなる高級賃貸の長屋だが、屋敷跡と思われる敷地には高さ15mを超える樹木が40mの長さの林として残っていたという。それを前にして、設計者の中村拓志氏は、伐採する通常の選択を回避し、緑そのものを付加価値として見積り、それを空間に取り込むというアイデアを提案する。こうして、許容限度の容積率を7割まで削った上で、主たる空間の骨格を既存の林を避けて鉄筋コンクリート造でつくり、そこからはみ出す洗面や浴室などは鉄骨造によって木々を避けて配置する方法が試みられていく。こう記すのは簡単だが、設計から現場までの苦労は並大抵ではなかったに違いない。木々の姿を一本ずつ図面化し、最後は職人まで残そうという気持ちを共有してもらうこと、そうした煩雑で非能率的な作業を延々と続けなければ実現できない質のものである。採算性の読み替えという事業者への説得、効率性を超える施工者の協力、そして、木々との対話的な設計手法など、そのすべてが、「東京的建築」とは対極にある。「複雑な全体」との格闘のたまものだ。また、その行為自体が、長い時間をかけて育まれた風景の意味を読み取り、伐採によって失われる価値を見つめ、建築の創造によって見えない価値をつくり出す、という建築家の仕事の原点を指し示している。その姿勢を若さゆえと評する人もいる。しかし、彼のこの孤独な闘いに建築界が連なることによって、今の都市環境の現実を少しでも変えられるのではないか。それは、建築家という職能の本質を問う尊いものだと思う。また、彼自身にも、今後、そこを離れてほしくないと感じた。敬意と共感をもって推した建築である。

現代建築の行方
 そして、今回の大賞を受賞した「中村キース・へリング美術館」については、その孤高とも言える個性的な空間の価値は理解できるものの、最後まで賛同することはできなかった。それは、上に記してきたように、日本建築家協会という職能団体が与える賞の意味を重視したいがための判断である。
 この賞は何を守り、何を育てようとしているのだろうか。一審査員にすぎない者が発するには、不遜な問いだと思われるに違いない。けれども、この賞の意味を考えることは、数千人規模の会員、ことに厳しい環境の中、地方で地道に活動を続ける建築家のよりどころとなる建築とは何か、そして、何よりも、日本建築家協会は、そのことを通じて、社会に向けて建築のどのような価値と意味を発信していくのか、という問いに答えていく自己点検の作業でもあるのだと思う。

 建築界の外に広がる厳しい現実、人々が自らの居場所を失いつつある都市、形骸化する郊外、疲弊する地方、といった問題を前にして、今、建築に何ができるのだろうか。答えが簡単に見つかるとは思えない。しかし、少なくとも、そのことへ向けて、建築は、誰もが共感できるテーマを掲げ、共有できる開かれた方法をもち、誰もがそれを持ち帰り、改善を繰返すことで、より広く使えるものへと鍛え上げていくことのできる潜在力を備えた存在であってほしい。いわば、「この指とまれの方法論」とでも呼べる開かれた試みによって差し出される、何かわからない奥の深い可能性を感じさせる建築こそ、切実に求められているのだと思う。