審査員講評 |
|
■ | 中川 武 |
衝突・融解・未発の力としての新しい建築の形式 現地審査の対象となった7件の候補作品は、必ずしもジャンル別に選ばれたわけではないが、現代日本の建築家が各々のジャンルにおいて、担うべき深刻かつ重要な課題とそれに向けての新しい解決策の提示が各々にあった。 (1)ふじようちえん:原っぱのような学校である。現代日本の幼児教育が抱えている多くの問題を、一気に突破してしまうおおらかさにあふれている。通常あまりに健康すぎるものを見せられると、つい人間には暗さも・・・という気にもなるが、この建築はそういうものなど吹き飛ばしてしまうほどよく考えられていて、見かけほど単純なものではない。しかし、手塚氏の建築には、プログラムと空間の間にクッションがないことが私にはどうしても気になった。後日の審査会で、手塚氏は、人の動きや使い方が建築の断面をつくる、というのが私共のポリシーだというようなことをおっしゃった。手塚氏の作品の類稀なる力強い明快さは、そこから生まれることは了解される。しかし、たとえば人間はパンのみで生きるにあらず、パンの耳のみで生きる(注1)、ということが象徴する状況と向き合っていくためにも、クッション(私はそれを建築の形式と考えている)が、もたらす知恵と戦略が現代の子供たちだからこそ必要だと思う。 (3)成城タウンハウス:都市集合住宅における新しい集合、それは、街路-アプローチ-室内-中庭-隣地-隣棟-街路間相互の連結の方法によってより豊かな空間の可能性を求めているといえそうだが、それを野心的に探究している妹島氏の成城タウンハウスは、西沢立衛氏が森本邸で実現したものを、さらに一歩先へ、というか、実験的でコンセプシャルなものから不確定条件をも許容する現実への着地性を強めた可能性が見られるのではないか、と期待していた。結論からいえば微妙なところで失敗しているようだ。もし、旗竿敷地のように細いアプローチで引き籠ったものではなく、街路に面した敷地であったら、明るいけれど異様な整序感という違和感が明るくほどほどの秩序をなす周辺に、ジワジワと働いたかもしれない。審査会では分譲にしたのが問題という発言があったが、私は引き籠った場所に咲く、秘密の明るい花のように感じられてしまうチグハグさを最後まで払拭することができなかった。 (4)Dancing trees, Singing birds:屋上や壁面の緑化など、都市緑化はできるところからどんどん進められていくだろう。それ自体悪いことではないが、現在の都市緑化には、飼い慣らされたグリーンという印象が付き纏ってしまうのは、緑との根源的付き合いがどんどん希薄化しているからに違いない。その意味で、この作品は都市の緑という問題に対する、ある種突き詰めた解答になっていると思う。特に裏側の崖下から見上げたこの集合住宅の光景は圧倒的だ。跳ね回る木々の枝、幹、根に対して、建物は柔順に寄り添うでもなく、無視するでもなく、あえていえばキッパリと呼応する関係が築かれているように思った。ところが内部からの印象はやや異なった。たしかに木々と空間の関係が、内部生活にもところどころ巧みに取り入れられてはいる。けれども、内部空間では、それらの木々が特異な光景ではあるが、舞台背景のように後景として退いていて、崖下から見たときの息詰まるような緊迫感がないのである。この建物の企画にマンスリーの賃貸ホームパーティ会場のような使い方も想定されていることとその印象が関係するかもしれないが、私は別のことが気になった。それは場所にまつわる問題である。目黒川沿いの崖地に残されたささやかな原始の緑地は、江戸期以来の神社仏閣の地であり、都市周辺の、庶民の身近な物見遊山、行楽の場所でもあった。それが今では、すっかり私的に囲われていて、第三者が見るためには覗き見せざるをえない。これをいきなり公共空地に戻すべきだと主張しているわけではない。この場所が持つ歴史文脈的価値を、わずか数軒とはいえ、集合住宅として共有するからには、分断された自然の背景として個々に内部空間に取り入れるだけではない集合の方法もあるのではないか。もしそれが可能であれば、つまり私的集合体とはいえ、共通の価値に対する共通の方法を基にした集合の実現であって、必ずや周辺にも影響がにじみ出るはずである。そしてそのことが逆に私的な集合性にも影響を及ぼすと思われる。このような曖昧な私有・地域・公共の関係こそ日本の都市の奥性=聖性=緑地性の真髄であって、それが現代だからこそなおのこと都市のバイタルな根源性になり得るのだと思う。 (5)アパートメントⅠ:これが現代的な都市居住の最低線であるとは勿論思わないが、条件の選び方によっては、驚くべき苛酷性を帯びてしまう条件のもとにこの作品も成り立っている。ひどい条件であっても、アクロバティックにそれなりの解答を出してしまう都市隙間小住宅派は犯罪に加担しているようなものだ、という批判がつい先頃あった。しかし私にはそのような批判はスターリン主義的だと思う。問題は、その解決策の中に、“家貧しくして孝子出ず”のような、創造的な芽があるか否かだと思う。アパートメントⅠは、佇まいとしてはそれが感じられた。私は住人がどのように住みこなしているのか見たかった。結論からいえば、“狭さは貧しさ”と単純にはいえない、狭さゆえの凛とした住み方ということがあるのかもしれないと考えさせられた。この作品の中に入る前までは、ブラインドを降ろせば自分は見られないが、いつでも、どこからでも他人を見ることができる、というのは暴力ではないか、と考えていたが、そうではなく、傷つけ合い、迷惑をかけ合って生きているのだから、お互いに我慢して、というのではない、緊張感の中の安息のような、都市居住の様式のようなものがあるのではないか。かつて江戸の町屋は、農村の民家形式が密集してつくられてきたことが、現在の東京の都市空間の根底にあるとすれば、都市居住様式の確立の鍵は、意外と隙間小住宅派が握っているのかもしれない。彼らは極端に苛酷な、個別の特殊な条件に対応を迫られているのではなく、その苛酷さの中にこそビビットに現れてくる都市居住の普遍的な課題と格闘しているようにも思う。その課題に果敢に挑む建築形式がまだ発見されていないだけなのである。 (6)中村キース・ヘリング美術館:木立の中に祝祭のような造形が見え隠れする。印象的な幾何学形態や立体が散りばめられ、各々濃密であったり、あっさりと周辺の風景に溶け込んだりする場所が、あたかも造形の抽象度の差異を意識するかのように散逸的に構成されている。大地の起伏に合わせて、めくりあがるように駆け抜けていく黒く塗られた杉の板壁に沿って遠くを眺めたり、暗闇に浮かぶ天上から落下する光を浴びて、あるいは朝靄の中の広い谷合いの空間に現出するキース作品との応答、そして、太古の山容や地熱の記憶に直面する強い造形と透明な抽象の対比など、根源的なものに届く力とどこまでも受容するやさしさと、見たこともない新しさの中に懐かしさを感じるそうした建築に出会えたことは幸運であった。近代建築以降、経済、社会、生活、文化的水準というもの以外にも、ものに精神を背負わせたいという止むにやまれぬ妄想を抱くに至ってしまったという共同性からも、建築家は逃れることはできていない。一回性の個別の解決を通して、建築形式という、複雑、スピード、危うさを特徴とする、建築家にとっての文体の創造によって、建築家は社会的存在としての建築家であり続けようとしているのである。この作品における、抽象度の違いによる衝突性の強さ、素材やプロポーションの違いなど、あらゆるものの存在をありのままの姿で許容するかのような融解性、そして直裁さの響に溢れる未発の力そしてそれらの統合のあり方を持って、現代建築における形式の創造ということができる。 (7)沖縄県立博物館・美術館:グルリに差し掛けられた白い斜壁が、格別風土性の強い沖縄の地で実際はどういう風に感じられるのか楽しみであった。強い日差しの中で防護された感じは、やさしく悪いものではなかった。しかし、ロビーの大空間の伸びやかさが屋上やテラスを通じて、内外に融通無げに広がっていく工夫がもう少し欲しかったところである 以上により、中村キース・ヘリング美術館が傑出していると判断したことについて迷いがなかった。しかし、他の諸作品は、各々特定の分野とテーマについて優れた特色を持っており、比較は難しいがインパクトの強さで、ふじようちえんとDancing trees, Singing birdsを選んだ。 |
|
■ | 馬場璋造 |
多様化のなかで 多様化の効果と限界 建築デザインの多様化が言われるようになってから既に久しい。振り返ってみれば、近代建築の時代は、ほとんど全員が機能主義という同じ山の山頂目指して登っていた。ただ、というのは表向きの見方で、当時でも近代建築と違った道を歩んでいた建築家がいたことが、あとになって知れるようになってきた。ミケル・デ・クラークやハンス・シャロウンなどがそうである。ヨーロッパではいつまでも近代建築は少数派だったが、ジャーナリズムはそれだけ近代建築に先鋭的であった。アメリカと日本、とくに日本は、第二次大戦で軍国主義から民主主義に反転したように、近代建築にあらずば建築にあらず、といった勢いだった。歴史とジャーナリズムの光が当たらなければ、なきに等しいのである。 それに加えて建築教育、とくにデザインが近代建築の思想一辺倒だったことの影響が大きかった。当時建築教育を受けた私たちにとって、ほかの選択肢はなかったのである。新建築の編集をはじめるようになってから、戦前建築教育を受けた建築家の多くは一変した事態に対応できず、ひっそりとしているのを知ることができた。 ポストモダニズムの波が過ぎるころから、近代建築の呪縛が解けていった。つまり、皆で目標とするひとつの山に登るのではなく、それぞれが別の山に向かって登りはじめたのである。それぞれが違った価値基準、好みを持つのであるから、ひとりの言説が趨勢をリードするなどということがなくなってしまったのである。たとえ注目される建築が完成し、言説が発表されたとしても、ほかの建築家はそれに従うことはなくなった。その考え方や建築を評価しないのではない。評価はするが、それはそれ、と冷静に対応するのである。つまり反応はするが、あまり影響は受けないのである。たとえばアートから起こった「フラット」という概念が建築でも流行ったことはあるが、それで建築が一斉にフラットになったわけではない。ほとんどはそうした考えも面白いな、くらいの受け取り方である。 思想なき時代といえるかもしれない。また形式のない時代ともいえる。しかしそれは決して悪いことではない。覚めた目を持つようになったのである。それが多様化なのである。それで困るのは、まだその時期ではないのに、時代を総括して名付けようと試みる人たちである。また学生にデザインを教える先生方であろう。確信を持って教えることのできる規範がない一方、学生たちは十分でない知識をもとに新しさを探し求める。当然、ジャーナルに載った建築や言説からそれを選ぶ。それはつねに移ろっている。そこで学生から浮かび上がる反応を時流と読み取ってしまうと、大きな過ちを犯すことになってしまう。 巨匠の時代からチャンピオンの時代に移ったのである。チャンピオンは巨匠より多くのファンを集めるが、人気がなくなると、さっと波が引いていく。現実の状況を観察すれば、それは一目瞭然である。多様化の相互作用は表層的には効果が大きく見えるが、実際にはかなり限界があることを知らなければならない。多様化の時代のなかでは、自分の足元をしっかりと踏み固め、さまざま学びながらも、各自の道を歩むしかない。現代は主流を読んで、それに付いて行くことができない時代なのだ。 今回の現地審査の対象となった7作品は、いずれも多様化をそのままに現すものであった。ひとつとして同じ方向を向く作品はなかった。審査をする側としては大変に困るのではあるが、こうした時代に困っているのはお互い様である。前向きに付き合うしかない。さまざまに異なった評価軸であるが、建築としての質の高さは——それも現在では評価要素の一部でしかないが——測ることができる。また賞を機会に、こうした建築に目を向けて欲しい、という願いをそこに込めることができる。 大賞:中村キース・ヘリング美術館 建築家協会賞 賞に入らなかった他の候補作品も、それぞれ優れていた。まず「丸の内仲通り」は、デザインの目を建築からまちに向けていくという意味で、大きな意義を持っていた。こうした試みが評価されるようになれば、日本のまちは大きく変っていくであろう。 多様化のなかで、選ぶ側の座標軸は確定し難い。それが少しずれただけで、結果は違ってくる。だからといって、こうした時代に賞の意味がないわけではない。さまざまな評価が年を追って積み重なるうちに、その時代の姿が結果として浮かんでくる。多様化の時代を超えて21世紀の建築のあり方が見えてくるのは、まだまだこれからである。 |
|
■ | 松隈 洋 |
この指とまれの方法論へ 今回から、この賞の審査に加わることになった。最終審査のすべてが公開という形式もはじめての経験である。正直、極度の緊張を強いられた。けれども、日本建築家協会に所属する建築家の方々の最新の仕事を通して、現代建築のあり方を考え、議論する貴重な機会だった。ここでは、審査を振り返りながら、その間、考えたことを書きとめておきたい。 提示した審査の基準 大賞に推したふたつの建築 現代建築の行方 |
|