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■ 日本建築大賞
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「情緒障害児短期治療施設」 設計者:藤本壮介 藤本壮介建築設計事務所 |
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もっとも精密なものがもっとも曖昧であり、もっとも秩序立っているものがもっとも乱雑であるということ 情緒障害児短期治療施設とは、さまざまな理由によって心に負担を負った子供たちが集まり、ともに生活するなかで徐々に自分たちの生活を取り戻していくための施設である。そう書くと非常に特殊な建築だ思われるかもしれないが、根源的に求めれらるのは真に豊かな生活空間であり、定員の50人の子供たちとスタッフがさまざまに関係し合いながら暮らしていく場所である。 求められる機能は非常に複雑である。しかしそもそも生活とは複雑で曖昧で、とても整理しきれるものではない。そのように複雑で曖昧なものを大雑把に整理して「機能」と呼ぶことには抵抗があった。逆にここでは「整理され得ないもの」を整理され得ないままに形を与えることを考えた。曖昧で複雑で理不尽で整理され得ない小さな社会というものに、一つの形を与える試みである。 ■ランダムという方法−精密なプランニング/偶然の地形 何かが、ただばら撒かれたような、そんな方法で建築を作ることができたなら、それは夢のような建築ではないかと考えた。機能に応答したプランニングという概念を無効にしてしまうような建築。はじめはそんな思い付きだった。しかし設計を進めて行くうちに、この方法は驚くほどに精密なプランニングが可能であることが分かってきた。求めれらる複雑なプログラムに対して、箱を微妙に動かしながら、ランダムゆえに柔軟にプランを詰めていくことが出来るのである。 しかしこの方法の一番の特徴は、その先にある。 限りなく厳密で人為的な設計の結果として出来上がったこの空間は、しかしどう見ても何も計画されていないような、自然にできてしまったような場所として立ち現れてくるのである。曖昧で予測不可能で意外性に満ちた場所。最も意図的で厳密な設計行為の結果として、意図しない何かが生まれてくるということに僕は惹かれる。それは「巣ではなくて洞窟のような場所」と言っていい。巣は住む人のために意図的にしつらえられる場所であるのに対して、洞窟はただ存在し、そこに人が居場所と機能性を見出していく。洞窟的な場所を人為によって作ること、それは機能性を越えた豊かな建築を予感させる。無為を人為によって作り出すことが可能かもしれないと思わせてくれる。 ■選択性と偶然性/自由さと不自由さ ランダムに置かれた箱の間には、必ずイレギュラーなアルコーブ的な場所が生まれてくる。リビングと連続しながらも「隠れられる」小さなスケールの場所である。それは避けようもなく奇妙に無造作な形で出来てしまう空間だが、自然の地形を自由に解釈して住みこなしていく原始人のように、子供たちはその場所と戯れる。物陰に隠れ、顔を出し、奥でくつろぎ、広々と走り回る。離れていることと繋がっていることが両立して、その間に選択性と偶然性、自由さと不自由さが同居する。そして意図的でないゆえのその曖昧さ、意外性、何ものも強制せず、さまざまな解釈を許容する緩さこそが、住むための場所の豊かさを実現する。 全ての箱が同じ大きさであり、機能によって箱の大きさが変わったりはしない。そのことが意図しない場所というものを一層際立たせ、居心地の良い他者性を実現する。さらにここには、中心がないとともいえるし、逆に無数の中心があるともいえる。それらは光の入り方やそこで過ごす人の意識によって常に入れ替わり変化していく「相対的な中心」である。スタッフにとってはスタッフルームが機能的な中心であり、子供たちにとってはリビングが、個室が、あるいはアルコーブが中心となる。空間の揺らぎの中にその時々の中心が見出される。 つまりこのプランは、偶然を作り出すための精緻な方法なのである。もっとも精密なものが、もっとも曖昧であるということ。もっとも秩序立っているものが、もっとも乱雑であるということ。人間が作り出すものが、人間のコントロールを超えているということ。つまり「ない」ということに形が与えられるということ。解釈の問題でもなく、レトリックでもなく、アルゴリズムでもなく、ルールでもなく、ただ事物の新しいあり方が提案されている。 ■人為と無為の間 この建築は、例えば微生物が集合した姿に似ている。乱雑に散らかった机の上に似ている。たくさんの人がただ立っている様子にも似ている。嵐の後に木の葉が吹き寄せられた姿に似ている。そして誰も見たことのない森の木々に似ている。つまりそれらは、物事の本当に何気ないあり方そのものなのである。それは整理はされていないかもしれないが、確かに明確な形であり、形式である。この乱雑な状態が、それとは対極のミースのグリッドと同じくらいに自然な事物のあり方であるとはいえないだろうか。そしてミースが人為の完璧な極北とするなら、このプランは人為と無為の間に無限の豊かさを模索する試みなのである。 |
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